昨年3月、ピックルボールの米プロリーグ「メジャーリーグピックボール(MLP)」のマイアミ・ピックルボールクラブにドラフトで指名され、日本人初のMLP選手になったのが船水雄太だ。プロソフトテニス選手から前例のない戦いに挑んだ32歳がスポーツ報知の単独インタビューに応じた。

プロ選手になるまでの苦悩、自身と競技の今後などを語り尽くし、「ピックルボール界の大谷翔平になれるように、世界一を目指して頑張りたい」と目標を口にした。(取材・構成=浅岡 諒祐)

 開拓精神を突き動かされた。ピックルボールの存在を知ったのは2023年。コロナ禍が明け、プロソフトテニス選手としての今後を思案していた時に出会った。新しい可能性に心が躍った。

 「これまでのソフトテニスのキャリアもあったが、世界大会で2、3回連覇しても、自分の世界線は変わらないのかな、と。ならば、これまでの努力や心技体は誇りに思いつつ、スポーツエンタメ、ビジネスのど真ん中である米国で一番伸びているスポーツで世界一を目指すのが次の自分のモチベーション、目標になるんじゃないかと思い、思い切って挑戦しました」

 当時の日本王者にもSNSを通じて連絡し、実際にプレーするうちにソフトテニスで培った技術と経験を生かせる手応えをつかんだ。そして本場の米ロサンゼルス訪問が決定打になった。

 「潰れかけたテニスコートがピックルボール専用になって収益が何倍にも復活したとか、ビバリーヒルズで有名人や映画のプロデューサーがやっていたりという現状を見て、これは『本物』だと確信。日本でもその波を起こせればと、そこで決意しました」

 日本ではまだマイナーな競技でプロを目指す―。前例のない挑戦を決断した背景には、船水のキャリアもあった。

 「ソフトテニスで世界一になったり、無理だと言われてきたことを成し遂げてきた。

ソフトテニスでプロになった時も、『プロでは食えない。そんな前例がない』と言われてきたが、僕と弟(颯人)でずっと道を作ってきた。開拓していく性格は元からありました」

 24年1月に渡米。元全米王者で、日本での普及に取り組んでいたムーア氏の父のもとで、1日6~10時間の練習を2か月間こなした。練習試合も行ったが、アマチュアにすら勝てず「すぐに鼻がへし折られた」。次第に心がすり減っていったという。

 「勝てない時期は、ダブルスで1~2球しか触れない日もあった。言葉も通じないし、下手で独特なスキルを持った日本人とは別にみんなやる必要はない。練習相手を探すのにも苦労して、壁打ちばかりしている時期もあった。プロと知り合うためだけに夜中に(自宅を)出て、3時間くらいかけて飛行機で行ったこともある。ただ、その時も(練習補助の)球出ししかできなかった。100人いたら、多分99人くらいが諦めて辞めていると思います」

 プロへの道筋も見えず、資金的にも苦しい。

それでも諦めず、朝から晩まで試合会場を練り歩き、関係を作り続けた。

 「理不尽なことが多く、うまく行かないことばかりで、諦めてもいい時はいくらでもあった。ただ、諦めると、これまで培ってきた心技体が全て否定されてしまう。このチャレンジに期待してくださっている方々、次に続くであろう若い世代のため、僕だけではなく、みんなの思いをエネルギーに変えて踏ん張っていた」

 MLPのドラフトで指名されるためには、ユナイテッドピックルボール協会(UPA)との契約が必要で、基準は全米ランキングで60位以内。船水は昨年1月の大会で世界ランク1位に勝利し資格を得て、締め切り2時間前に、滑り込みで契約を交わした。ここで満足することはなく2週間後のドラフト本番まで、積極的な営業活動を始めた。

 「全チームにメールを送って、日本人で初めてのプロ選手を目指していること、ソフトテニスで世界王者になったこと、誰も見たことのない独特なボレースキルがあると書きました。1回見たら僕の価値が分かる、くらいのゴリゴリの営業をしましたね」

 各オーナーから提示された条件はトーナメントでの32強以内。ドラフト約1週間前にクリアし、複数チームからトライアウトの機会をもらい、力を示し続けた。

 「朝から全スキルをチェックされて、1回のミスも許されない雰囲気でやらされた」

 過密な日程、急な予定変更、トライアウトでは40度の高熱とぎっくり腰に苦しめられたが、全体39位で自身の名前が呼ばれた。

 「これまでの努力が全て報われた。メディアを含めて、勝てない時も温かい応援をしてくださって、エネルギーになっていた。

お世話になった人たちの顔がすごい浮かんできました」

 晴れてプロになると、自身を取り巻く環境は180度変わった。特に、大会中のプロとアマチュアの違いは雲泥の差だった。

 「プロの予選に出ていた時は、1日8~9試合、真夏の40度の中でやらされた。全身がけいれんし、翌日の本戦を戦えない時もあった。ただ、メジャーリーグ選手になると控室もクーラーが利いたところ。ケータリングもあるし、シェフもいる。これだけ差があるのか、と」

 各競技のスター選手との交流も生まれた。

 「ロサンゼルスで練習場所に困っていた時、ドジャースのベッツ選手に『日本人で初めてのメジャーリーグ選手なら使っていいよ』と言われ、彼の家に行き、練習場所を提供してもらったことがある。ベッツ選手はシーズン中だったのでプレーしなかったが、彼がいる前で普通に練習し、自己紹介までした。テニスのアルカラス選手(現世界ランク1位)ともニューヨークで一緒にイベントをしました。他の競技と同水準とまではいかないが、肩を並べられるくらいの立ち位置にはあるのかなと思います」

 自身の挑戦の模様はYouTube「ピックルボールジャパンTV」でも発信しており、日本での普及に貢献している。

 「次世代の人が僕より上の結果を残すための道しるべになりたいし、その軌跡を残すために発信もしている。

まずは競技に集中して、結果でいいニュースを届けたい。ピックルボール界の大谷翔平になれるように、世界一を目指して頑張りたいです」

 ◆メジャーリーグピックルボール(MLP) 米国のプロリーグ。リーグはプレミアとチャレンジャーに分かれ、26年はプレミアに17チーム、チャレンジャーに5チームが所属。1チームの人数はプレミアが男女3人ずつ、チャレンジャーは男女2人ずつ登録でき、リーグ戦では男子ダブルス、女子ダブルス、混合ダブルス2試合を実施。シーズン中には全チームが一堂に会したトーナメントも行われる。リーグ戦終了後は上位10チームによるプレーオフを行い、王者を決める。

 各クラブのオーナーには、NBA選手のレブロン・ジェームズ、NFL選手のパトリック・マホームズら著名人も多い。船水が所属するマイアミ・ピックルボールのオーナーの1人は、プロテニス選手の大坂なおみ

 ◆船水 雄太(ふねみず・ゆうた)1993年10月7日、青森・黒石市生まれ。32歳。宮城・東北高3年時の高校総体でソフトテニスの個人と団体で優勝。早大に進学し、全日本大学対抗選手権大会では4連覇。

ダブルスと個人でも優勝を経験。早大在学中の2015年には国別対抗戦で優勝。卒業後はNTT西日本に入社し、日本リーグ10連覇を達成。20年にプロ転向。23年からピックルボールに取り組み始め、25年3月にMLPドラフトの全体39位でマイアミ・ピックルボールから指名。178センチ。右利き。

 ◆日米の事情 ピックルボールワン社によると、24年の米国での競技人口は約1980万人で、米国内でのコート数は約7万面。MLPの賞金総額は500万ドル(約7億円)で、トップ選手は年俸1億円以上。日本での競技人口は25年3月時点で4万5000人。ピックルボール専用のコートも増えてきており、25年7月には東京タワーの真下にコートが常設された。

 【取材後記】

 ピックルボールの経験がなかったため、取材前に体験させてもらい、簡単なゲーム形式も行った。

プレーして分かったのは、ボールが弾まないため重心が低くなり、下半身に負担がかかること。インタビューでそのことを尋ねると、船水も「常に軽いスクワット、中腰状態でやるので、最初は経験したことない筋肉の張り方をしましたね」と、苦笑いで振り返った。

 もちろん、全員が挑戦を好意的に受け止めたわけではない。実際に、ピックルボールを始めた当初は「頭がおかしくなったのか。何だそのスポーツは」と言われることもあったという。決してぶれず、自身の選択を信じた。今後も挑戦し続けるのだろう、と感じた40分の取材。翌日、私が両足の筋肉痛に苦しめられたのは言うまでもない。(浅岡 諒祐)

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