“道頓堀の凱旋門”として親しまれてきた大阪松竹座が、5月末をもって閉館する。4、5月の歌舞伎によるさよなら公演の中心となるのが、歌舞伎の人間国宝、片岡仁左衛門(81)だ。

5歳のときに道頓堀の中座で初舞台を踏み、上京後も上方歌舞伎の継承に心血を注いできた。役者人生の始まりの地から劇場が消える寂りょう感の一方で、語られたのはこの人にしか発することのできないであろう言葉だった。(内野 小百美)

 「あのとき、京都の南座とともに、東の歌舞伎座に対抗できる劇場ができたんだな、という喜びにあふれてましたよ」。仁左衛門は映画館から「演劇の殿堂」に生まれ変わる松竹座が再開場した97年を昨日のことのように回想した。「手打ち式」では歌舞伎俳優が一堂に舞台へ。その光景を記者も見ているが、劇場と歌舞伎俳優たちの決意の始まりに映った。

 仁左衛門の役者人生は道頓堀で始まっている。初舞台(49年)を踏んだ中座の閉場時(99年)は、新たな場所がある、という希望があった。松竹座建て替え時、楽屋の設計にも携わった。しかし、その歴史も約30年で幕を閉じる。「とにかく、残念。それしかない」。

声は少し震えているように聞こえた。この一言にどれほど深い無念さ、悔しさが込められているか。大阪での2か月にわたる15代目仁左衛門襲名披露興行もここだった。「道頓堀から芝居小屋の灯を消したくなかったね」

 映画「国宝」のヒットもあり、確実に歌舞伎ファンが増えている今、なぜ?と疑問を持つ人もいるだろう。松竹は歌舞伎だけの会社ではない。仁左衛門は「松竹の専属ではないけれど、松竹に育ててもらった。歌舞伎の興行が非常に厳しい時、映画や松竹新喜劇に食べさせてもらったと思っています」という表現で松竹経営陣の苦渋の決断を思いやった。

 松竹座の功績を振り返ったとき、上方歌舞伎塾(97~03年)の存在も見逃してはならない。脇役の片岡松十郎、片岡千壽、片岡千次郎らの戦力が育った。江戸狂言に対して“上方(関西)の匂い”の芸を継承するための後継者育成。中心講師は仁左衛門の次兄、片岡秀太郎さん(2021年没、享年79)だった。スタート時に取材したとき「いまは不器用な亀さんでもいい。

大事なのは10年、20年後も目的意識を持ち続けられるかどうか」と話していた。

 「兄の秀太郎は教えるのがとてもうまくてね。そして松竹座ととに大阪の歌舞伎をもっと大きくしたいという思いで力を入れられたのが松竹の永山(武臣)会長でしたからね」。記者は京都生まれだが、東京転勤後、上方歌舞伎の尊さを思うようになった。今の時代、舞台映像はいつでも見られる。しかし芸の本質に関わる見えない“匂い”の会得は至難の技だ。

 仁左衛門は失意で終わることはなかった。「寂しいけれど、何とか、どういう形にしろ、道頓堀で歌舞伎のできる芝居小屋を再建できるようがんばりたい」。命を削るよう芸に向き合い、歌舞伎界に貢献してきた人が、さらに自身を追い込もうとしている。そして、さよなら公演を「あらゆる方に見てほしい。歌舞伎を初めて見た方の心を逃したくないんです」。新たな決意を秘めたその眼光は、鋭かった。

「お客さんの心、逃したくない」 「さよなら公演」で大役2つ 4月・松王丸、5月・佐々木盛綱

 仁左衛門は「御名残四月大歌舞伎」(3日~26日)と、「御名残五月大歌舞伎」(2日~26日)の両月に出演する。4月は「菅原伝授手習鑑 寺子屋」で松王丸を松本幸四郎とダブルキャストで。5月は「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」で佐々木盛綱を勤める。

 「この座組、このタイミングではこの2つかな」としたが、松王丸は同劇場での襲名披露興行で勤めている。盛綱は松竹座再開場の時にも演じた。「盛綱陣屋」は「理由はうまく答えられないが、大好きな狂言」という。久しぶりに1か月間、単独で演じる。

 同じく5月には「當繋藝招西姿繪(つなぐわざおぎにしのすがたえ)」での監修も。「ギリギリまで分からないけれど、松竹座への思い、道頓堀、上方歌舞伎への感謝の気持ちを込めながら、踊りやお話で構成したい」。自身の出演に関しては千秋楽での登場が濃厚だという。

 ◆大阪の道頓堀と松竹座の歴史 江戸時代の道頓堀には「道頓堀五座」(浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座)があった。五座で最後まで残った中座が1999年に閉場。

代わって“演劇の殿堂”を担うことになった松竹座の誕生は1923年で主に映画館として使われてきた。97年に再開場後、歌舞伎だけでなく、新派、OSK日本歌劇団、松竹新喜劇、落語、アイドル公演などが上演されている。

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