大相撲の元大関若嶋津の日高六男さんが15日、肺炎のため千葉県内の病院で死去した。69歳だった。

葬儀・告別式は未定。

 鹿児島県出身で1957年1月12日 生まれの日高さんは、現役時代は2度の優勝を果たした。

 鹿児島商工高(現樟南高)相撲部監督に勧誘され、相撲を始め、同高3年時に茨城国体で優勝に貢献。75年3月場所、二子山部屋から初土俵を踏んだ。十両を5場所で通過し、81年1月場所、新入幕を果たした。精かんな顔立ちから「南海の黒ヒョウ」と呼ばれ、188センチ、125キロからの強烈な投げで人気を博した。82年11月場所で、12勝3敗の好成績。直近3場所で34勝となり、大関昇進を決めた。

 84年3月場所を14勝1敗で初優勝。「大関に昇進した時から優勝するのが目標でした」と涙を流した。綱取りとなった5月場所は9勝6敗に終わった。7月場所は全勝優勝を飾り、再度の横綱昇進に臨んだが、9月場所は11勝で、届かなかった。

85年9月には、当時、同じ鹿児島出身の歌手、高田みづえと結婚し、話題を集めた。

 その後は、首、肩、腰などを痛めるなどで、87年7月場所で引退。「悔いはありません。自分なりに精いっぱい努力しました。大関にもなれたし、心はきょうの天気のように青空です」と会見で答えた。引退後は、松ケ根部屋を設立し、元小結・松鳳山ら4人の幕内力士を育てた。17年10月、千葉・船橋市内の路上で倒れ、頭部を手術。直後は意識不明となり、集中治療室に入院。その後は順調に回復し、23年7月、日本相撲協会を退職していた。

【悼む】

 鹿児島商工高(現樟南)時代、水泳、マラソン、相撲とスポーツ万能だった日高少年が卒業後の進路に選んだのが大相撲だった。同部屋を選んだのは大好きだった大関貴ノ花(故人)がいたから。「子供の頃からずっと憧れの人です」。

75年3月の春場所前、大阪府警察病院で行われた新弟子検査の日、目を輝かせていたのが忘れられない。

 初土俵を踏んだその場所、貴ノ花が横綱北の湖を優勝決定戦で破り、初優勝を決めて日本列島を大興奮の渦に巻き込んだ歴史的な春だった。

 その超人気大関の付け人時代、相撲人生をしっかりと見据えさせられる出来事があった。76年11月の九州場所。東序二段45枚目まで出世し7戦全勝した。もう一人全勝の西103枚目槍竜(やりりゅう=花籠)との優勝決定戦は、攻め込んだ日高だったが勇み足で優勝を逃してしまった。

 負けて照れ笑いを浮かべながら支度部屋に戻って来た時、テレビで一戦を見守った貴ノ花の顔付きが変わった。「日高、負けて何、ヘラヘラしてる!」。弟弟子の態度に激怒した兄弟子。「部屋に帰ってからも懇々と怒られて。勝負に負けたら悔しさをもっと出せ、と。あの1敗がワシの相撲人生の出発点になりました」と振り返っていた。

 貴ノ花に教え込まれた勝負の厳しさを実践し、大関にまで出世。188センチ、125キロの細い身体、精悍(せいかん)な目つきから「南海の黒ヒョウ」のニックネームも付けられた人気力士時代。千代の富士の「ウルフ」、益荒雄の「白いウルフ」らと並ぶ昭和の人気力士だった。

 土俵上では精悍なイメージを崩さなかったが、素顔は純朴な青年。86年2月、同じ鹿児島県人のアイドル歌手・高田みづえさんと婚約を発表したが、直後、杉並区にあった二子山部屋2階の自室に呼ばれた時、「これ、みづえのレコード。いいよ~」とのろけられたものだ。

 元横綱・千代の富士の九重親方が2016年7月31日、61歳の若さで亡くなった時、「若すぎるよね、北の湖さんも亡くなったのは62歳の若さ。本当に寂しい」と話していた南海の黒ヒョウも逝ってしまった。(元大相撲担当・大野 修一)

 ◆若嶋津 六男(わかしまづ・むつお)本名・日高六男。1957年1月12日、鹿児島・中種子町出身。75年3月場所、初土俵。83年9月場所から、しこ名を若島津から若嶋津に改名。

85年に当時歌手だった高田みづえと結婚。87年7月場所で引退。引退後は松ケ根部屋を設立。その後、二所ノ関を襲名。優勝2回。敢闘賞2回、技能賞3回。通算成績は515勝330敗21休。

得意は、左四つ、寄り、上手投げ。

編集部おすすめ