フリーアナウンサー生島ヒロシ(75)が、文化放送で4月からパーソナリティーを務めることが16日、分かった。詳細は後ほど発表される。

 生島が1998年からMCをつとめた古巣TBSのラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」(月~金曜午前5時)を電撃降板したのは、昨年1月27日のオンエア後だった。コンプライアンス違反が問題となりあと5回で、放送7000回の節目を迎える直前のことだった。

 「今まで経験したことのないショックでした。呼吸も乱れるような感覚があった。自分の中で、何かが一気に崩れ落ちたんです」。その日の夜、NHKのニュースで自分の顔が映し出された。何気なくテレビを見ていたところに突然飛び込んできた自分の姿。そこでようやく、自分が起こしたことの重さを、社会の現実として突きつけられた気がしたという。

 「自分の人生でやってきたことが、全部否定されたような気持ちになりました。ああ、もうダメだ、と。本当に思いました」と眠れない夜が続いた。

 外に出るのも嫌だった。

誰かとすれ違うだけで、自分のことを噂しているように感じた。世間のすべてが、自分を責めているように思えた。妻と夜道を歩いたとき、ふと漏れた「まるで犯罪者みたいだね」という言葉は、今も胸に深く残っているという。「存在価値がゼロになったような気がしたんです。周りの人みんなが、自分を悪く思っているんじゃないか。そういう気持ちから抜け出せなかった」

 長年、自分のライフワークとして大切にしてきたラジオの仕事も失った。どう立ち直ればいいのか、見当もつかなかった。

 そんな生島を支えたのは、家族やただ黙って手を差し伸べてくれる人たちの存在だった。特に大きかったのが、生島の番組で長い付き合いの元順天堂大学医学部附属順天堂医院・天野篤院長の言葉だという。多くの人が「何があったのか」と事情を聞きたがる中で、天野氏は一切それを聞かなかった。ただ食事に誘い、「ゴルフに行きましょう」と声をかけた。

 最初は、その気力すらなかった。

だが、天野氏はこう言ったという。「生島さんは宮城の星、東北の星なんだから。もう74歳でしょう。いつ死んでもおかしくない年齢なんですよ。だったら、ここで終わってどうするんですか。命があるんだから、もう一度立ち上がらないと」というその言葉が、深く刺さった。

 東日本大震災を経験し、幾多の困難を見てきた人生だった。だからこそ、「せっかく命があるのだから、このまま沈んでいるだけじゃいけない」という思いが、少しずつ心の中に戻ってきた。

 ようやく外に出て食事をする気持ちになれた。人から声をかけられ、励まされ、多くの本を読んだ。多くの人に失敗があり、挫折があり、どう立ち直っていったのか、自分は何が悪かったのかを見つめ直す時間となった。

 半年ほど過ぎた頃、自分でも何か出来ないかとボランティア活動に参加するようになった。

能登半島では、炊き出しの現場に入った。単に現地へ行くだけではなくテントを張り、鍋釜を用意し、設営から携わった。これまでとは違う、本当の意味での支援の現場に立ったことで、見えてくるものがあった。

 特別養護老人ホームでは高齢者と向き合い、障害のある人たちが働く現場も訪れた。親亡きあとを見据え、懸命に居場所をつくろうとする家族や経営者の姿にも触れた。気仙沼では、震災後も子どもたちの活動を支え続けてきた。

 そんな中、「自分が励ますつもりで行ったのに、逆に自分の方が生きる力をもらったんです」社会に迷惑をかけたという思いがある一方で、もっと厳しい状況の中でも懸命に生きる人たちがいる。その現実に触れたことで、「自分も頑張れる」「また終わってはいけない」という気持ちが湧いてきた。

 反省の日々の中で、生島はコンプライアンスも一から学び直した。関連書籍を読み、専門家にも会い、資格試験にも取り組んだ。なかでも痛感したのは、「自分では意識していたつもり」と「相手がどう受け止めたか」は違う、ということだった。

 「周波数が合う人とはうまくいく。

でも、合わない人とどう向き合うか。それをきちんと学ばなければいけなかったんだと思います」

 腹を立てても得することはない。人にもっと丁寧に接しなければいけない。ちょっとした摩擦が、大きな損失や傷につながることもある。今回の経験は、そのことを身をもって教えてくれた。

 そんなおり、文化放送で番組が持てるかもしれないという知らせが入った。その知らせは、生島にとっては暗闇に差し込んだ一筋の光だった。「本当に嬉しかった。人間って、希望があると生きる力が出るんです」

 もちろん、実現は簡単ではない。スポンサー、放送枠、世間の目。何より、一度つまずいた自分を起用すること自体が、周囲にとって勇気のいる決断だったはずだ。それでも手を差し伸べてくれた人たちがいた。

「セカンドチャンスをくれた、その勇気に報いないといけないと思いました」。

 今の自分は、ゼロからではない。むしろマイナスからのスタートかもしれない。だが、それでも前に進みたいという気持ちは、はっきりした。

 今年も11日は「気仙沼市東日本大震災追悼式」に出席し、仕事復帰を前に妹夫婦を含む犠牲者の方々に手を合わせてきた。

 この一年あまり、生島は仕事から遠ざかり、世間との接触も減った。だから以前と同じようにパフォーマンスが発揮できるかは、自分でもわからないという。長く話せば喉に負担もかかる。ボイストレーニングも、やり直すつもりだ。

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