日本相撲協会は25日、エディオンアリーナ大阪で夏場所(5月10日初日・両国国技館)番付編成会議と臨時理事会を開き、春場所で3度目の優勝を果たした関脇・霧島(29)=音羽山=の大関昇進を満場一致で決めた。現行のカド番制度となった1969年名古屋場所以降、降下した場所で10勝以上を挙げての復帰を除く返り咲きは魁傑、照ノ富士に次いで3人目。

大阪・堺市で行われた昇進伝達式で「さらなる高みを目指して一生懸命努力します」と口上を述べた。

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 2度目の口上は力強く、そしてよどみなかった。霧島は12場所ぶりの返り咲きを満場一致で正式に認められたことを使者から伝えられると「さらなる高みを目指して一生懸命努力します」と堂々と述べた。「大関の名を汚さぬよう、今まで以上に稽古して頑張ります」と霧馬山のしこ名で述べた23年夏場所後の最初の大関昇進伝達式と変えた。同じモンゴル出身の師匠・音羽山親方(元横綱・鶴竜)が同席し、家族も見守る中、霧島は「朝から緊張していた。前回は止まったところがあったが完璧。100点くらいかな」と胸を張った。

 「さらなる高み」は最高位の横綱を指し示し、音羽山親方が考案し加えた。過去2例で平幕転落から大関復帰した魁傑、照ノ富士は2度目の伝達式の口上は「謹んでお受け(いた)します」と超シンプルだった。だが、同親方が「満足していないと意思表示したかった。難しい言葉ではなく簡単でわかりやすいものにした」とこだわった。激励の意味が込められた口上に霧島は「素晴らしい言葉だった。

目標を思い出した」と感謝した。

 相撲未経験から最初の大関昇進に導いてくれた陸奥親方(元大関の初代・霧島、現音羽山部屋付き)の思いも乗せた。「一生懸命」は36年前の90年春場所後に初代・霧島が口上で述べたものだ。2代目は「先代の思いを込めた。一生懸命やるしかないという意味」とうなずいた。入門時には陸奥親方に「横綱になる」と約束。霧島のしこ名を最高位にすべく、1度目の口上でも述べ、陸奥親方から口酸っぱく厳命されている「稽古」を重ねていく。

 もう一つ約束ができた。春場所千秋楽後の優勝パレードは、交通規制や警備の制限時間が迫っており、紋付きはかまではなく締め込み姿。長女・アヤゴーちゃん(6)に「風邪引いちゃうから裸で優勝パレードしちゃダメだよ!」と叱られたという。「優勝したばかりだけど子どもが言うから、次は(紋付きを着て)やりたい」と霧島。最高位へ裸一貫の決意で5月の夏場所を制し、今度は紋付きはかま姿でオープンカーに乗り込む。

(山田 豊)

 ◆霧島 鐵力(きりしま・てつお=本名 ビャンブチュルン・ハグワスレン)1996年4月24日、モンゴル・ドルノドゥで遊牧民として生まれた。来日前はモンゴル相撲と柔道を経験。15年に当時の陸奥部屋入りし、相撲を始めた。最初のしこ名は霧馬山。20年初場所に新入幕。23年春場所で初V。同夏場所後に新大関になり、2代目・霧島に改名。同九州場所で2度目のV。24年春場所後に新設の音羽山部屋に転籍した。24年名古屋場所で関脇転落。三賞は殊勲賞1回、敢闘賞4回、技能賞4回。好きな酒は芋焼酎の「赤霧島」。

得意は左四つ、寄り、投げ。186センチ、149キロ。家族は妻と1男1女。

 ◆大関復帰 年6場所制となった1958年からは3場所連続負け越しで陥落だった。現行のカド番制度となった69年名古屋場所以降、2場所連続負け越しで陥落となり、関脇に落ちた場所で10勝以上すれば翌場所に復帰できる。1場所での復帰を逃してから再昇進するためには、通常と同じ直近3場所合計33勝が目安とされる。最初に大関となった時と同じように臨時理事会で昇進が決まり、使者を派遣して昇進伝達式も行われる。

 ◇平幕陥落後の大関復帰

 ▽魁傑 75年初場所後、大関に昇進。肝炎、腰痛に苦しみ、76年初場所で関脇転落。一時は西前頭6枚目まで下がったが、77年初場所後に大関に復帰。伝達式の口上は「謹んでお受けします」。同九州場所で関脇に転落し、79年初場所で引退した。

 ▽照ノ富士 15年夏場所後に大関昇進。両膝のけがや糖尿病などで、一度は序二段まで落ちた。21年春場所後に大関復帰。口上は「謹んでお受けいたします」。その後は横綱に昇進し、10度優勝。25年初場所で引退。

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