福島県の沿岸部・浜通りには、海沿いの町もあれば、山あいの村もある。それぞれに異なる風土と暮らしを持つこの土地は、まちごとに違う時間を重ねてきた。
2011年の東日本大震災と原発事故により、避難指示が出され、浜通りの北部に位置する相双地域には、一時は無人となった町もある。あれから15年。帰還や移住が進むなかで、風景は少しずつ変わり続けている。
ただ、その歩みは一様ではない。
今回は、山間部にある飯舘村、海に面する浪江町、大熊町で暮らす3人を訪ねた。一人ひとりがどのような選択を重ね、そのまちに暮らしているのか―――。
【飯館村】矢野淳さんの場合:自然と人間の関係を問い直し、村を“更新”し続け、その変遷の中にいたい
最初に訪ねたのは、阿武隈山系の里山に囲まれる飯舘村。「日本で最も美しい村連合」にも登録される飯舘村で、人々は昔から自然と深く関わり合いながら共生してきた。しかし、原発事故によって飛散した放射性物質は飯舘村にも降りそそぎ、村民たちは避難生活を余儀なくされたのだった。
震災後、村民は地域外からやってきた研究者などと一緒になって、改めて自然との共生について考えてきた。今回の取材で目的地とした「図図倉庫(ズットソーコ)」は、自然環境を観測し、研究、そしてこれからに向けた実験をする、秘密基地のような場所である。この場所で、どのように研究が行われ、何がわかり、活動してきた人たちは今、どんなことを考えているのだろう。そんな問いをもって、図図倉庫の扉を開いた。
福島市と浜通りを結ぶ国道114号線沿いに位置する飯舘村。カラフルで大きな看板はひと際目を引く(写真撮影/鈴木穣蔵)
図図倉庫は、旧ホームセンター跡地をリノベーションして作っており、敷地面積は1000平米とその広さは圧巻(写真撮影/鈴木穣蔵)
玄関となるガラス扉には飯舘村の山で採取された植物が埋め込まれている(写真撮影/鈴木穣蔵)
大きなガラス扉を開けると、ひと言では言い表せない不思議な光景が広がっていた。農業用ハウスの鉄パイプで組まれたコワーキングスペースには、廃校になった小学校の机や椅子が並び、木工室には廃材や道具が積まれている。大きなスクリーンでは映画上映もできるという。
小学校だけでなく、村内のさまざまなところから譲り受けた家具などがある(写真撮影/鈴木穣蔵)
農業のハウス用の鉄パイプでつくられたコワーキングスペース。米づくりの過程でできる「もみがら」を燻炭(くんたん)にし断熱材として、天井に活用。地域の資源を再利用するのが図図倉庫の空間づくり(写真撮影/鈴木穣蔵)
ふと見上げると、天井では不規則に光が点滅していた。
「素粒子の鼓動」制作:ARu(写真撮影/鈴木穣蔵)
「これは『素粒子の鼓動』という作品です。放射線が通過したときに光る仕組みになっています。目に見えないものを光に変える実験なんです。最近きたクリエイティブチームの学生がつくってくれました」
そう声をかけてくれたのは、合同会社MARBLiNG共同代表の矢野淳(やの・じゅん)さんだ。矢野さんは東京都出身。
合同会社MARBLiNG今日代表の矢野淳さん。飯舘村と東京で二拠点生活をしながら、全国各地へ講演などにも出向く(写真撮影/鈴木穣蔵)
矢野さんは続けて、図図倉庫の常設展示である「環境世界を旅する」を案内してくれた。宇宙の始まりから続く放射線の現象や、震災後に村民と研究者が積み重ねてきた調査の記録、飯舘村の歴史が紹介されている。一見すると難解に思えるテーマも、カラフルなイラストや実験装置を通して、自然と身近に感じられた。
常設展示「環境世界を旅する」の展示の様子。矢野さんの解説とグラフィックなどが重なり、飯舘村や放射線の原理などもすっと理解できた(写真撮影/鈴木穣蔵)
放射線を可視化する装置。鉱石の下に映る白い線が放射線(写真撮影/鈴木穣蔵)
「原発事故をきっかけに、宇宙や山、植物など、さまざまな視点を持つ研究者が村を訪れるようになりました。それを受けて村の人たちの中にも、土や微生物に興味を持ったり、素粒子って何だろう?と考えるような、新しい視点が芽生えています。
飯舘村は、農業や畜産業などを通して自然と共に生きてきた土地です。
更新され続ける村を見て、関わり続けたい
(写真撮影/鈴木穣蔵)
物理学者の父について飯舘村に通い始めた頃の矢野さんは、高校生だった。絵を描くことが得意で、村民の「敷地の山や畑を一面花畑にしたい」というプロジェクトのイメージポスター制作をしたり、記録映像の編集などしたりしながら、活動に関わった。土壌の放射線量測定作業にも同行したと、当時を振り返る。
「研究者たちは、被災地への同情ではなく、自然環境への純粋な好奇心から村に入っていました。研究者が土壌の線量を測るときには村の人たちも一緒。地元の人から土地のかたちや水の流れを学び、研究者が科学的な知見を伝える。そんな教え・教わるようなコミュニケーションが面白いと思って見ていました」(矢野さん)
研究者と村民が線量測定のために収集した土の一部。写真は土を保存したケース。約2万5000本分のデータを蓄積している(写真撮影/鈴木穣蔵)
高校卒業後は芸術系の大学へ進学。建築や都市計画を学ぶようになり、飯舘村はフィールドワークの舞台へと変化した。村民へのインタビューを重ね、復興や再生について考え続ける傍ら、関心のあった地域の祠(ほこら)の調査を行い、卒業制作も飯舘村を対象に取り組んだ。
思い入れが強い場所だからこそ、新たに何かをつくることに迷いもあった。それでも葛藤の末に行き着いたのは、「飯舘村というフィールドを更新し続けたいし、その変化を見ていたい」という思いだった。
「震災前から続く歴史も、原発事故が起きたことも含めて、いまこの場所で起きていることはとても特異で、興味深い。自然に対する人間のアプローチをどう更新していくか。卒業制作で掲げたこのテーマの延長線上に、図図倉庫の活動もあると感じています」(矢野さん)
写真手前にあるのは、飯舘村全域の模型。JR山手線が二つ入るほどの土地面積がある(写真撮影/鈴木穣蔵)
村民の願いであった「山津見神社例大祭」の復活と、“更新”
飯舘村では2017年に最初の避難指示が解除され、時間が経つごとに村には移住者やアーティストなど同世代の仲間も増えてきた。そうしたさまざまな人と手を取り合い、矢野さんは2025年12月、「山津見神社の例大祭」という村の祭りを“更新”した。
飯舘村の佐須地区にある山津見神社は、山の神・大山津見(おおやまつみ)を祀る古社。全国的にも珍しい「オオカミ信仰」で名が知られており、東北全土に崇敬者を抱えている。震災前は3日間の例大祭に、毎年2~3万人の参拝者が集まり、名物“茅葺茶屋”をはじめとした夜通し賑わう風景があった。しかし、震災後は規模が縮小化され、例大祭の原風景は薄まりつつあったのだという。
そんな中で、2025年の年始に山津見神社の氏子から「茶屋と屋台の並ぶ例大祭をやりたい」と声があがった。震災後に、例大祭の復活を願う村民の声を何度も耳にしてきた矢野さんは、住民の高齢化などさまざまなハードルを感じていた。だからこそ、「やるなら今年しかない!」と直感的に思ったという。佐須地区に長く関わってきた矢野さんにも一緒にやろうと声がかかり、図図倉庫として、このプロジェクトの企画・制作担当として例大祭に参加することとなった。
山津見神社の境内。飯舘村では山そのものが神の依り代とされ、自然と人とを繋ぐ境界地点に鎮座する。2013年に拝殿は一度火災にのまれたが、2015年に再建された(写真撮影/鈴木穣蔵)
拝殿に設置された約250枚の狼の天井絵は、飯舘村の重要な文化財の一つ。2013年に天井絵も焼失されたが、東京藝術大学保存修復日本画科等の協力により修復された(写真撮影/鈴木穣蔵)
矢野さんたちは神社の由来や村に伝わる「虎捕(とらとり)伝説」をモチーフにした演劇の上演をしたり、地域のアイデンティティーが伝わるようなグッズを制作したりなど、多方面からのアプローチを試みた。単なる伝統の復元ではなく、かつて村の人々が大切に紡いできた記憶に、現代ならではの視点という「新しい文脈」を重ねていく作業でもあった。
例大祭に向けて作成したオリジナルグッズ(写真撮影/鈴木穣蔵)
「『よそ者・若者』である私たちが、飯舘村を表現することには強い緊張感がありました。村の方々にどう伝わるだろう……と。例えば演劇では、飯舘村をずっと見てきた私の視点から、セリフの細かなニュアンスを脚本家さんに変更してもらうなど、最後まで調整を重ねました。
いざ幕が上がると、深くうんうんと頷いている方や、涙を流したりする方の姿があって。『私たちの物語を紡いでくれてありがとう』と村民の方から感想をいただいた時には、準備の苦労を忘れるぐらい、胸がいっぱいになりました。やりきってよかったと心底思いましたね」(矢野さん)
例大祭の名物であった茅葺茶屋が復活。あたたかな料理が振る舞われ、雪が降る日もあった期間中も、たくさんの人で賑わった(写真提供/図図倉庫)
山津見神社の由来などを題材に、「宇宙のはじまりから今の飯舘村まで」を描いた新解釈の共創パフォーマンスとして上演された「新釈 虎捕山縁起」。
「今の飯館村は、外から来る人が関わる余地が、いい意味で生まれている場所だと思います。自分の暮らす地域をどうデザインしていきたいか、自ら考える人が増えたら、ここはもっと面白くなるはずです」(矢野さん)
矢野さんにとって飯舘村は、自然と人間の関係を問い続けるためのフィールドだ。今、まさに村が更新されていく過程に立ち会い、その一部を担うこと。それが、矢野さんが飯舘村に居続ける理由だ。
【浪江町】吉田さやかさんの場合:家・文化・農地をニンニクでつなぎ、次世代が憧れる“カッコいい大人”に
次に訪ねたのは、浪江町出身・在住で株式会社ランドビルドファームを営む吉田さやか(よしだ・さやか)さん。馬の堆肥を活用した農作物栽培や、相双地域の文化体験事業を営んでいる。
明治時代に建てられた築約150年の生家で迎えてくれた。その立派さに、玄関をくぐった瞬間、思わず「すごい……」と声がもれた。
玄関を入ってすぐの大広間。文化体験事業でツアー客を招き入れ、食事の提供なども行う(写真撮影/鈴木穣蔵)
吉田家は先祖代々、福島県相馬地方の文化伝統行事・相馬野馬追(そうまのまおい)(以下、野馬追)に参加してきた。野馬追は、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。祭典中は甲冑をまとい、太刀を帯し、先祖伝来の旗指物を風になびかせる約400騎の騎馬武者たちが威風堂々とまちゆく、戦国時代のような風景が目の前で繰り広げられる。
3日間にわたって行われる相馬野馬追。写真は2日目に実施される「神旗争奪戦(しんきそうだつせん)」の光景。空に打ち上げられる御神旗を騎馬武者たちが掴み取る(写真提供/蒔田志保)
吉田さんに案内され階段を上っていくと、吉田家が代々使い続けている甲冑や野馬追のときに使われる馬具などが並べられていた。その様子からは、吉田家にとって野馬追が大切なものであることがひしひしと伝わってくる。
天井裏には野馬追のときに身につける甲冑が並ぶ(写真撮影/鈴木穣蔵)
馬の身につける道具の数々も見ることができ、まるで博物館のよう(写真撮影/鈴木穣蔵)
吉田さやかさんと、祖父がつくってくれたという吉田さんの甲冑。現在吉田さんは、祭事のときはまかない班として、出陣する家族を支えている(写真撮影/鈴木穣蔵)
吉田さんは幼少期、曾祖母を含む9人家族で暮らしていた。野馬追で活躍する馬もずっと一緒で、それは今も変わらない。地域の人と関わり合って生活するのが当たり前で、人の出入りが絶えない賑やかな家だった。
「家族だけでなく、漁港で揚がった魚をトラックの荷台一杯に積んで持ってきてくれるおばちゃんがいたり、馬の世話をしにくる人がいたり。たくさんのことを教えてくれる『カッコいい大人』がいつもそばにいました。
みんなと過ごす時間の中でも、食卓を囲んで『おいしい』を共有できる時間は特別だった。魚を見て名前を覚えたり、漁港に行ったり、田植えや稲刈りも一緒にしました。生活の中でいろんな体験ができる浪江町での暮らしが子どものころから大好きでした」(吉田さん)
現在、家では8頭の馬を飼育している。幼い頃から、馬の世話をするのも日常だ(写真提供/吉田さやか)
教わったことの全部が詰まった、大切な家。
しかし、震災と原発事故により、生家のある地域は避難指示区域に指定された。吉田さんは浪江町に貢献したいという思いを胸に秘めながらも、家族とともに町外で避難生活を送ることを余儀なくされた。
家と文化と農地をつなぐ「サムライガーリック」
避難生活をしながら、吉田さんは自分が育った環境や家族で大切にしてきたことを振り返った。
蔵の中に眠っていた家族写真。およそ90年前に撮られたもので剣術の師範だった家族の姿があり「この時代に先祖は刀を置き、鍬に持ち替え、農地を耕し始めたんです」と吉田さんが教えてくれた(左)野馬追の神事「野馬懸(のまかけ)」の様子(右)(写真撮影/鈴木穣蔵)
蔵の中からは、およそ4代分の嫁入り道具として持ち込まれた食器類もでてきた。現在も使用されている(写真撮影/鈴木穣蔵)
「生まれ育った家と、野馬追をはじめとする文化、そして先祖が残してくれた農地。この大切な3つをつなぎ合わせて、力強く復興する浪江町の姿を伝えられないかと考えたんです」(吉田さん)
考え尽くした末に、吉田さんは新規就農して、ニンニクの栽培を始めようと決心。若手の農業従事者が少ないことや、国の被災地域を支援する制度、そして「あるものを惜しまずやってみなさい」という地元で農家を営む方からのひと声が背中を押した。
ニンニクの旬は6月ごろ。取材時の畑は次の出荷に向けて準備中で、土に隠れてしまう芽を一つひとつ手作業で掘り起こしているところだった。「馬の堆肥を混ぜ込んだ土は栄養満点、はずむような踏み心地」だと吉田さん(写真撮影/鈴木穣蔵)
決心した当時はまだ、生家も先代の農地も帰還困難区域内にあった。そのため、吉田さんは町内に新たに土地を借り、一人で栽培を始めた。初年度から大ぶりのニンニクを収穫でき、手応えを得た。現在はきょうだいも加わり、家族経営へと成長している。
吉田さんは育てるニンニクを、「サムライガーリック」と名付けた。野馬追の時期、この地域ではカツオをすり下ろしニンニク醤油で食べる食文化がある。戦国時代には、「勝つ男」に通じる験担ぎとしてカツオの刺身が食され、滋養強壮の源としてサムライたちに親しまれていたという。そんな背景から、この土地らしさを込めた。
サムライガーリックは、より甘みが増しドライフルーツのような味わいの感じられる「黒ニンニク」へも進化を遂げた。さらに、黒ニンニクをスパイスとして効かせたクラフトコーラ「サムライガーリックエナジーコーラ」などへ6次産業化もされている。地元や東京の料理人がレストランで調理に使うケースもあり、香りの強さやニンニクの味わい、そして吉田さんの思いへの共感が集まっていることがひしひしと伝わってくる。
サムライガーリックと加工品の黒ニンニク。「サムライガーリック」とする商標登録も済ませており、サムライが所有する野馬追に参加している馬の馬糞による堆肥を使って作られたものと定められている(写真撮影/鈴木穣蔵)
農業に加えて、生家をひらいた文化体験事業「和坐 -waza-」も始めた。サムライガーリックを味わえるほか、野馬追で使う甲冑や兜の着付け体験などを提供している。直近では、復興庁や旅行業者が企画する福島のスタディツアーなどで立ち寄られるケースが多く、一般の方から賓客まで、幅広い客層の人が訪れているそうだ。
ツアーなどで提供される「侍御膳」。調理は吉田さんの母が担当し、浪江町の請戸漁港で獲れた刺身や、戦国時代に徳川家康が好んで食べたとされる鯛の天ぷらなど、相双地域の食文化や武家文化を感じてもらえるよう工夫を凝らす(写真提供/株式会社ランドビルドファーム)
「ツアーの受け入れを始めてから、現地に足を運んでもらって肌で感じてもらうことの重要性を感じています。実際にこの家に来てもらうことで、『自分が思う家のかたち』や、守りたい思いがよく伝わる気がするんです。訪れた方からは、『いまだに人が住めずに苦しんでいる地域だと思っていたけど、楽しそうに農業をされている姿を見て驚いた』と言っていただくことがあります。そんな言葉を聞くたびに、この場所で歩み続けてきて、良かったなぁと切実に思います」(吉田さん)
次の世代へバトンをつなぐ
「震災から15年。気づけば自分が『カッコいい大人』の世代になっていたと最近気づきました」と吉田さんは話す。
「子どものころから、農業や漁業などさまざまな分野で働く大人にたくさんカッコいい姿を見せてもらっていました。私もそういう大人にならなくちゃいけないなと思うし、子どもたちに見せていきたい。私のきょうだいたちも、同じ気持ちでいるはずです」(吉田さん)
来シーズンの収穫は3万8000株を予定。「毎日楽しく農業がしたい」と明るく話す(写真撮影/鈴木穣蔵)
吉田さんが農業に励む姿は、子どもたちにすでに伝わっているのだろう。ニンニクの収穫や販売を、甥っ子やまちの子どもたちは前のめりで手伝うのだという。
「子どもたちは、楽しそうにオリジナルの歌までつくってくれたんですよ。匂いから敬遠されがちだったニンニクが、みんなが手に取りたいニンニクになりました。自分だけじゃなくて、みんなとつくっている。私が感じてきた地域の豊かさを、サムライガーリックで表現できているのかなと思います」(吉田さん)
今は町外に住んでいる同級生から、帰ってきたら一緒に何か取り組もうと声をかけられるできごともあった。「そんな未来が今は楽しみ」と吉田さんはうれしそう。浪江町が大好きな吉田さんのまっすぐな思いは、場所も時間も越えて、遠くまで届いていきそうだ。
【大熊町】池田孝代さんの場合:32年越しのUターン。家族と食堂を開き、孫の成長を見守る暮らし
最後に話を伺ったのは、浪江町出身で、現在は大熊町で「食事処 池田屋」を営む池田孝代(いけだ・たかよ)さん。結婚を機に神奈川に移り住んだが、2023年、32年間ぶりに長男、長女家族と一緒にUターンした。
池田孝代さん。店に入ると朗らかな声で「いらっしゃいませ」と迎えてくれた(写真撮影/鈴木穣蔵)
もともとは長男の高校受験のタイミングで帰ってくるつもりでいた。しかし、震災によってその計画は先延ばしに。夫とは死別していたため、池田さんは女手ひとつで二人の子どもを育て上げた。
「神奈川では、飲食店を2つ経営していました。朝4時から仕込みをして、夜中の2時まで働くこともあって。あのころは子ども2人を大学まで卒業させたい一心でしたね。
だからね、早く田舎に帰って、のんびり猫でも飼って、縁側で白菜の漬物でも食べて、そんな暮らしを夢見ていたんです」
さっぱりとした声で池田さんは当時を振り返った。そのうちに子どもたちは成人し、長女は結婚。孫も生まれた。子どもたちは家を神奈川県に建てていたこともあり、池田さんは一人で福島へ戻る準備を始めた。
しかし、結局は孫も含めて家族みんなで福島へ移住することとなったのである。「一緒に行く、って言うからびっくりしましたよ」と池田さんは笑う。
本当は生まれ故郷の浪江町に帰りたかった。しかし自宅があった場所は災害危険区域に指定され、住むことはできない。それに、孫を大熊町にできた、認定こども園と義務教育学校の子どもが共に学ぶシームレス教育を取り入れている「大熊町立 学び舎 ゆめの森」に通わせたいという長女の希望もあった。「ゆめの森」へ通うには、大熊町への居住が条件となるため、新たな生活は大熊町で始めることとなった。
「食事処 池田屋」開店で再び始まった忙しない日々
ようやく始まるはずだった“のんびり暮らし”。けれど、そう簡単にはいかなかった。移住当時の町内には飲食店がほとんどなく、地元で飲食店を営む親族に後押しされ、2024年5月、大熊町で「食事処 池田屋」をオープンすることにしたのだ。
店内は落ち着いた雰囲気で、テーブル席と座卓がある。一人でも、友人同士や家族と、ホッとひと息つきながら食事ができそうだ(写真撮影/鈴木穣蔵)
現在は長男と2人でお店を切り盛りしている。ランチ営業と夜営業をし、定食やカレーライスなどのメニューを提供している。
ボリューム満点のカツカレー(1000円)を取材前にいただき、筆者はお腹いっぱいに(写真撮影/鈴木穣蔵)
「神奈川でお店をやっていたとはいえ、この地域ならではの難しさもありましたね。一番は仕入れですね。スーパーまで片道1時間以上かかるんです」(池田さん)
食品ロスを減らすために冷凍もしておけるメニューを考案するなど、試行錯誤続きだった1年目は、寝る間もないほど忙しかった。夜営業は19時までと、飲み屋にしては早い店じまいにしている。時代の流れの中で、“飲む文化”が“家飲み”へと変化していることを感じていたからだ。
それでも、地元サッカーチームのメンバーが利用してくれるなど、この場所で営業しているからこそのうれしい出来事もある。「スポンサーの旗を買って応援しているの。それは楽しいわ」と笑顔を見せた。
大熊町での暮らしに「満足」
2025年には大野駅前に商業施設がオープンし、町内に食事処も増えた。お店の忙しさが少し落ち着いたことに、池田さんはほっとしている。
「この夏、ようやく念願の農業も始められて、好物のスイカを育てられたのはうれしかったですね」
池田さんが生まれ育った実家は、家屋敷合わせて900坪ほどある広い敷地だったのだそう。畑や果樹、池もあり、魚が泳いでいた。浪江の暮らしが恋しくて、神奈川にいたころも月に一度は帰るほどだった。ゆくゆくはそういう家づくりをしていきたいと理想を教えてくれた。
孫の送り迎えも、池田さんの今の日課だ。ランチ営業が終わると、学舎へ迎えに行き、夜ごはんやお風呂も共にする。
池田さんは、春になったら息子と一緒に釣りへ行くのを心待ちにしている。娘は、仕事と子育ての合間にK-POPの“推し活”を楽しんでいるのだそう。
「自由に出かけていく娘を見ていると、“何もない”とか“不便”と思われがちな田舎でも、楽しく好きに生きられるんだな、って思います。私は、暮らしに困らない程度にお店を続けながら、もう少し農業の時間を増やせたら。それで、今の生活はもう満足です」
目を細めながら、やわらかな笑顔で食事を運んできてくれる池田さん。食べる前から嬉しい気持ちになった(写真撮影/鈴木穣蔵)
それぞれに過ごしてきた時間の先で、選んだ場所が「福島」だった
東日本大震災から15年経ったとはいえ、2011年3月11日、あの日の記憶が残る人々にとってこの場所を選ぶことは、どこか「使命感」や「覚悟」のようなものが思い浮かぶかもしれない。
しかし、3人の話に共通するのは、ほかのまちに住むことと同じ、もっとシンプルで個人的な動機だ。
「来てみたらおもしろい場所だったから」「生まれ育った家があるから」「家族と一緒にふるさとの近くに住みたいと思ったから」――。
震災は「自分がどこで生きていきたいか」を考えるきっかけの一つだったのかもしれない。けれど、今ここにいる理由は、個人の選択の積み重ねの結果。一人ひとりが選択した生き方が、今の浜通りをつくっているのだ。
もしこの記事を読んで、この地域で暮らす人の話を聞いてみたい、自分の目で今の福島を見てみたいと思ってもらえたら、ぜひ足を運んでみてほしい。今回紹介した3人だけでなく、それぞれの時間を生きている人たちがいる。その声に触れることで、この土地の姿は、また少し違って見えるはずだから。
●取材協力
図図倉庫
サムライガーリック(株式会社ランドビルドファーム)

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