長野市・善光寺門前町(長野県)。歴史ある門前町として昔ながらの古い街並みが残るなか、ここ20年ほどで若い世代や移住者を中心に空き家をリノベーションした店が増え続けている。
では、このにぎわいはどこから来たのか。その秘密を探る。
「まちのために」じゃない、私的な熱量が場を育てる
(画像提供/長野・門前暮らしのすすめ)
善光寺門前町ににぎわいが生まれた背景。それは、行政の再開発があったわけでも、外から大きな資本が入ったわけでもない。まちに暮らす有志たちが、「面白い!」という熱に動かされて続けてきた小さな実践の積み重ねが、このまちのにぎわいを育ててきた。
「私利私欲が先で、公共性は後からついてくる」
そう語るのが、門前町にある企画編集室「ナノグラフィカ」の増澤珠美(ますざわ・たまみ)さんだ。
大学進学で長野市に移り住み、1992年に長野市権堂のアートスペース「ネオンホール」の運営に関わって以来、長野市のまちを紹介する小冊子「街並み」の発刊、まち歩きの企画や、まちづくりイベントの企画運営、まちの青年部の立ち上げなど、30年以上にわたって善光寺門前に根を張り続けてきた。
(撮影/小林直博)
表現の場をひらくこと。まちの魅力を発信する冊子をつくること。まちのみんなが集まる場をつくること。どれも、「まちのために」という使命感から始まったわけではなかった。誰かに頼まれたからではなく、まずは自分たちがやりたいことをやる。
増澤さんの30年間の歩みを振り返りながら、門前のまちを一緒に歩いてみよう。
面白いことがないなら、自分たちでつくればいい
長野市中心部にある権堂アーケードから北へ。まず訪れたのは、長野市のアートスペース「ネオンホール」。
(撮影/小林直博)
木製のドアを開けて、ライブのフライヤーが所狭しと張られた階段を上がると、バーカウンターと木造の小さなホールがある。まるで蔵の中にいるような、年季の入った黒い梁と白壁。
ここ「ネオンホール」では、毎週ライブ、アート、演劇、映像作品からお笑いまで、ボーダーレスかつジャンルレスなパフォーマンスが行われている。1992年のオープンから30年以上、カルチャーの発信拠点として愛され続けてきた。
増澤さんが「ネオンホール」に足を踏み入れたのは、大学3年生の夏だった。地元の安曇野市から信州大学教育学部に進学し、真面目な学生たちのなかでなんとなく居心地の悪さを感じていた増澤さん。教育実習をきっかけに、当時「ネオンホール」を立ち上げたばかりだった同級生の清水隆史さんに誘われ、インスタレーション(※)を観て衝撃を受けた。
※インスタレーション:空間全体を一つのアートと見立てる現代美術の表現手法
音響機材や照明器具は、「ネオンホール」の活動を面白がってくれた地域の企業や大人たちから少しずつ譲り受けたり、仲間が持ち寄ったりして集めたという(画像提供/ネオンホール)
「当時のネオンホールは廃墟同然の状態でした。電気もガスも通ってないのに、美術研究会の女子が泊まり込んで、まちから集めてきた廃材で制作するインスタレーションをしていて。
当時のネオンホールのコンセプトは、「学生はまちに出なきゃいけない」。
増澤さんによると、当時の信州大学教育学部は、実家から大学に通って、ほとんど遊ばずにそのまま教師になる学生が多いと感じていたという。
「真面目な子が多かったんだよね。大学の文化祭も、なんだか中学校の文化祭みたいで。教師になる人たちが、勉強ばかり頑張って遊びを知らないまま卒業していっていいのかな?って違和感があった」
そんなモヤモヤを解消してくれる場所に出会えた増澤さんは、大学祭でダンスを披露したり、仮装大会を企画してまちを練り歩いたり、「今まで誰もやったことのないことを企画しよう!」と、熱量のままに活動をした。そして「ネオンホール」のコンセプトに強く共感し、運営に携わるようになる。
「演劇をする人もいたし、ファッションショーをする人、DJもいた。一人芝居に、詩の朗読、写真の展覧会。アートというか、『表現未満』という感じの表現の吹きだまりの場所だった。それぞれの表現を、表に出してみれる場所みたいな感じだったんだと思う」
毎年3回行われていた『ネオンホール短編劇場』では、長野市周辺の劇団やユニットを軸に県内や県外からも上演団体が集った(画像提供/ネオンホール)
当時のネオンホールは、毎週何かしらのイベントはあるものの赤字状態。増澤さん以外のメンバーはまだ学生で、運営メンバー3人で楽屋をシェアして暮らし、アルバイトをしながら家賃を支払っていたという。
「演劇の公演をするときに邪魔だったから今は壁を抜いちゃったけど、最初は押し入れで寝ていました。
ネオンホールにはバーカウンターもある。現在は毎週水曜日に営業するほか、イベントに合わせて開かれることも(画像提供/ネオンホール)
大学卒業後、増澤さんは、臨時採用の職員として働きながらネオンホールの運営を続けた。睡眠時間が3時間を切るような日もあり、「このままでは身体が持たない」と感じた増澤さんは、教師を辞めてネオンホールの運営に振り切ることを決めた。
「当時、ネオンホールに出入りしてる人はいっぱいいたんだよ。だけど、専属でやってくれる人はいなくて。一方で、先生になりたいけどなれない人はたくさんいた。私は先生として一生懸命やっていたけど、安定したお給料がもらえるから先生をやってるんだって気がついちゃった。ネオンホールは、1円ももらえないどころか持ち出しでやっていたけど、それでもやりたいってことは私はこっちなんだなって。好きだったからしょうがないよね」
まちに開いた「メディア」としての場所が必要だ
「ネオンホール」の運営にのめり込む一方で、増澤さんはある壁にぶつかっていた。
ネオンホールをあとにして、西之門町へと向かう(撮影/小林直博)
「ネオンでライブをしてたバンドとかお笑いの子たちが、みんな東京に行っちゃうんだよ。『なんで? 長野でいいじゃん!』って言っても、『長野じゃ駄目だ』って。
ライブや演劇は、その日その場で終わる。しかし紙は残り、手元に置かれ、誰かに手渡されて広がっていく。増澤さんたちは、記録・編集・発信という軸を自分たちの活動に組み込もうと考えた。転機は、ネオンホールの出演者に手渡していた手づくりの地図だった。
「県外からネオンに来るバンドマンに、毎回『この辺にいい蕎麦屋ない?』と聞かれて、そのたびに手書きの地図を渡していたの。いよいよ面倒くさくなって、運営メンバーのおすすめ情報をまとめた地図をつくって印刷してみた。地図に載ってるお店にそれを置いてもらっていたら、地域の出版社から『これ面白いね。今度うちで出すガイドブックの巻末コーナーをつくってほしい』って依頼がきて。あの時はもう、すっごくうれしかったな」
当時のネオンホールは、機材が増えて編集作業をするには手狭になっていた。
巻末コーナーの取材のために地域のお店を回るなかで、「いい場所ないですか?」と相談すると、「あのお店、もうすぐ空くらしいよ」と教えてもらえた。
その建物が、のちの企画編集室「ナノグラフィカ」となる築100年の古民家だった。
善光寺の門前町・西之門町にある「ナノグラフィカ」(撮影/小林直博)
「ネオンホールは主に夜に活動していたし、ちょっとアングラな雰囲気があって。出会ったこの建物はまちに対して開いていて、天下の善光寺のすぐそばだった。ここなら、建物自体が私たちのメディアになる予感がしました」
こうして、ネオンホール立ち上げ10周年となる2003年に、企画編集室「ナノグラフィカ」がスタート。作業場兼関係者の宿泊とカルチャーの発信基地として、土間をギャラリーに見立て、月ごとに地元作家の作品を展示するように。
「喫茶室」と呼ばれる1階の通りに面した畳の間は、小説の朗読会や謡の稽古などの集いの場としても開放されてきた(撮影/小林直博)
このまちは面白い、なぜなら俺たちが住んでいるから
まちに開いた場を持ったことで、まちの人との関わり方や情報発信の仕方も変わってきた。
「ナノグラフィカを立ち上げたとき、私が田舎生まれなこともあって『お隣さんとの関係性がすごく大事』って感覚があったんです。改修工事を始めたときから、ご近所さんに挨拶回りに行って。その過程で、私たちの活動を知らせる媒体をつくろうという話が出ました。メンバーの中に趣味で手書き新聞をつくっていた子がいたから、『これいいじゃん』って、『西之門新聞』の発行が始まりました」
さらにそこから生まれたのが、長野市内の路地や建物、暮らしの風景を切り取った小冊子『街並み』だ。増澤さんが、運営メンバーのひとりが隠し持っていた私的な豆本を見つけたことがヒントになった。
(撮影/小林直博)
「運営メンバーの高井綾子ちゃんが、ロマンチックな写真とポエミーな短い言葉をまとめた冊子を隠し持っていて。本人は『見ないで!』って照れていたんだけど、『こういうことがやりたいんだね、これをまちでやろうよ!』って私が焚きつけて。
こうして、『写真と地図でながのを歩く』をコンセプトにした小冊子『街並み』が形になっていった。広告は掲載せず、わかりやすい説明もせず、「ものすごく私的な・個人的なもの」として、市内の「○○町」「○○通り」など、一冊につきひとつのテーマでまちの風景を切り取り続けた。
いまでは無くなってしまったお店や風景も、「街並み」のなかには残っている(撮影/小林直博)
「自分たちの住んでるまちの、ちょっとどうでもいいようなところを切り取った写真集ってないよねって。当時の私たちは、自分たちのまちを『つまらない』って言ってるやつはダサイ!ってちょっと意気がっていて。俺たちはこのまちが好き、このまちは面白い、なぜなら俺たちが住んでるから!って思っていた」
「自分たちに使わせろ!」から「みんなで使おう」に
(撮影/小林直博)
アンダーグラウンドなアートスペースから、まちに開いた編集室へ。活動を続けるなかで少しずつまちに開いていった増澤さん。まちとの関わり方がさらに変わったのは、2005年に子どもを出産したことだった。
「子どもが生まれたことで、地域の人が私を見る目が変わったと思う。私の子というより、このまちの子という感覚があって。それまでは、『何かやってる若い子』みたいな感じだったのが、『この人はこのまちに根付く気があるんだな』ってみんな思ってくれたというか」
子育ての先輩であるご近所さんたちが、子どもをあやしてくれたりお世話を手伝ってくれた。「まちの人に自分の子をお世話してもらったように、自分もまちのことをやろう」という意識が芽生えた。
さらに、2008年から商工会議所と一緒にまちづくりの事業に関わったことで、増澤さんは初めて公共性を意識するようになった。
「当時、商工会議所にちょっと変わった人がいて、文化的な事業を推進する中で『何か提案してみてよ』と声をかけてくれた。またその直後、城山公民館からも門前の魅力再発信の取り組みに誘ってもらって、『長野・門前暮らしのすすめ』の構想が生まれていった」
「長野・門前暮らしのすすめ」は、善光寺門前界隈の暮らしを発信するプロジェクトの総称だ。地域の古民家再生プロジェクト「門前空き家見学会」、まち暮らしを楽しむさまざまな案内人の目線でまちを巡る「ながの門前まちあるき」など、地域交流の機会をどんどん生み出していった。
「長野・門前暮らしのすすめ」がきっかけで、2011年からは長野市の空き家専門の不動産会社MYROOMと共に「空き家見学会」を運営するように。ここから移住者やUターンによる新しいお店が門前に増えていった(画像提供/長野・門前暮らしのすすめ)
もともと増澤さんたちは、門前の古い建物や空き家に強く惹かれていたが、その感覚は社会問題としての「空き家対策」とは異なるものだった。
「古い建物とか古いものが好きで。『この建物使ってないよね、じゃあうちらに貸してくれない?』みたいな感覚だったんですよね。そうはいってもなかなかパッと貸したり見学させたりはしてくれないじゃない。でも、城山公民館の方が『実は空き家って今、社会的に問題になっているんだよ』って視点を与えてくれた。自分たちが楽しいからやってきたけど、周りのみんなも楽しくないと、自分たちだけじゃ楽しいことは続かなくなっちゃうなって」
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「こんなまち、駄目だ」と言う人がいなくなってきた
そうして、「自分たちが楽しいことをやる」から、「人がよろこぶことをやるともっと楽しい」へ。個人の活動から、地域・公共へと意識が向いていったという増澤さん。
2009年には、「ナノグラフィカ」のある西之門町で同年代の仲間とともに「西之門町青年部」を立ち上げた。十数年以上前に途絶えてしまった夏祭りや御神輿を復活させ、毎月第4日曜日に開催されるマーケットイベント「西之門市」も企画。まちににぎわいが戻ってきた。
家のガレージや車の荷台から始まった「西之門市」。地道に続けるうちに善光寺の住職の目に止まり、2013年に善光寺境内へと場所を移し、善光寺や近隣商店の人たちとともに「善光寺びんずる市」を開催するようになった(画像提供/長野・門前暮らしのすすめ)
「いろんなことをやってきたけど、どれも新しいことを考えたわけじゃなくて。もともとあったけどなくなっちゃったものを、いまの状況に合わせて復活させた、みたいな感じ。『やりましょうよ!』じゃなくて、『これいいじゃん、やりたい!』って騒いでいたら、『そこまで言うならしょうがないな』ってみんなが動いてくれた」
たとえば、まちの蔵で御神輿を見つけて、「もう出せない」と言う区長によくよく話を聞いてみると、「打ち上げにお金がかかる」と説明され、「缶ビール1本あればいいから出させて!」と声をあげた増澤さん。仲間を募り、途絶えてしまっていた御神輿を再開させた。「まちではみんないろんな役割があるけど、ひとりくらい何もしないでやいやい言う人が必要」と増澤さんは笑う。
毎年冬の恒例行事となった西の門町の餅つき大会(画像提供/長野・門前暮らしのすすめ)
「ナノグラフィカ」を立ち上げてから20年以上。自分たちの活動によるまちの変化を感じるかと聞くと、「実はよくわからない」と増澤さん。新しいお店ができる一方で、老舗のパン屋さんが閉店するなど、一概には「まちがにぎわうようになった」とは言えないという。
「ただ、近所のおじいちゃんたちが『こんなまち駄目だ、年寄りっきり(※)で』って言わなくなったと思う。それがやっぱり一番うれしい。自分たちがどれだけまちを面白がっていろいろやっていても、『こんな町だめだ』って言葉を聞くとエネルギーが下がる。みんなが『いいな、楽しいな』って言ってると気分が上がる。そこは前と今で違うことだと思います」
(※)長野県の方言で「年寄りばかり」という意味
私利私欲から動けばいいーーこれから場をつくる人へ
最近、増澤さんが気になっていることがある。それは、門前で新しくお店や場を始める若い人たちが、「公共性を先に置くこと」だ。
(撮影/小林直博)
「まず私利私欲でいいって強く思う。まず『自分はこれをやりたいんだ!』っていう私利私欲が先で、それを人と共有したときに『楽しい!』が広がっていく。たぶんそうじゃないと続かない。まちのため、人のためを先に置きすぎると、誰の活動かわからなくなってしまう。みんなやさしいし、時代っていうのもあるけど『もっとわがままにいこうよ』っていうのを言いたい」
30年以上まちで活動を続ける中で、続けられなかった場所やイベントを数多く見てきたからこそ、まず自分自身の熱量と動機が必要だと増澤さんは訴える。その上で、これから門前で何かを始めたい人には、こんなアドバイスを送る。
「どうせ3年ぐらいしたら飽きちゃうんだから、やりたいなら今やった方がいい。3年温めてもしょうがない。あんまり初期投資しないでやるのがいいんじゃないかな。店づくりって、自分の理想のお店をまずつくって……って思うかもしれないんだけど、やってみてわかったことは、地域とかお客さんが8割ぐらいつくってくれるんだよ。理想の場所を自分で作り込み過ぎてしまうと、お客さんが入る余地がなくなってしまうんじゃないかな。居抜きで始めて、ちょっとずつ好きなものを置いていくとか、お金が貯まったら壁塗り替えるとか。それぐらいでポップにやるのはどうですか?」
最後に、「門前町で変わってほしくないことはありますか?」と聞くと、増澤さんは「ないよ!」と笑い飛ばした。
時の流れと共にツタが絡み、欠けたり汚れたりしてまちの風景に馴染んできた「ナノグラフィカ」の看板(撮影/小林直博)
「変わらないことなんてないですよ。縄文時代から考えれば、この門前町だってみんな変わった。変わるべくして変わっていく。東日本大震災が起きたとき、なぜ私はこのまちにいるんだろうって考えたんです。生き残りたいなら、山で自給自足するのが一番いいのに、やっぱり私は人がいるところにいたいんだなって。弱かろうが何だろうが、みんなで集まってやいやい言いながら何かをやるのがいいんだなって。私のやっていることは、大きい単位で見たらきっと無駄なことでしかないんだけど、その無駄がまちにとっては意外と大事なのかも」
まずは自分自身の熱量から。つくり込みすぎず、余白を残す。あとはまちが育ててくれるーー。「ネオンホール」も「ナノグラフィカ」も、まさにそうやって育ってきた。
「ないからつくる」「面白いからやる」という私的な熱量が人を引き寄せ、積み重なって、このまちの空気をつくってきた。最初から完成されたまちではなく、関わる人が育て続けるまち。だからこそ、善光寺門前には人が集まり続けるのだろう。
●取材協力
ネオンホール
ナノグラフィカ
長野・門前暮らしのすすめ

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