【画像】グランドスラム2024で熱戦を繰り広げた日本男子選手たちの厳選写真!
――長年、全米オープンに出場する選手をサポートし、会場で応援していらっしゃいますが、きっかけは何だったのでしょうか。
「1988年に岩本功さん(現ジュニアナショナル男子監督)に出会ったのが始まりです。高校時代にテニスを始めて3年、どんどんハマっていた時で、その時にある方からフロリダ・サドルブルックにあるハリーホップマンテニスキャンプ(松岡修造氏も現役当時練習していた名門アカデミー)を紹介され参加したんです。岩本さんは隣のコートでプレーをしていて、日本人には見えない容姿とプレーでアカデミーのトップ選手でした。ピート・サンプラスやジェニファー・カプリアティなどのちに世界のトップに駆け上がる選手と練習やマッチ練をしていました。キャンプで同部屋になった方が、彼のことを知っていて日本人であることがわかり、それからのお付き合いになります」
「私は草テニスですが、アメリカの大学で冬は水泳部、春からテニス部で活動していました。彼はアメリカの有名大学のテニス部に所属しトップでプレー。その後、コーチとなり、日本テニス協会でジュニア強化を始めていました。ある時、毎冬に彼がフロリダ遠征で日本の有望なジュニアを1ヵ月ほど連れてきているということで、英語が普通に話せたり、移動の時に運転できるスタッフが足りないので手伝ってほしいとお願いされたのがジュニアのテニスとの出会いですね。
――当時のジュニアでプロになった選手を教えてください。
「尾﨑里紗選手や西岡良仁選手、中川直樹選手、磯村志選手、松村亮太郎選手など数えきれないほどいますよ。12~15歳くらいの子供たちからすれば“ニューヨークの和田おじさん”ぐらいでしょう。毎晩のようにジュニア相手に日常とテニスコートで使える英語教室をしたり、テニスを教えることはできない代わりにバスを運転しながらアメリカの凄さ、異文化の習慣、気質の違い、世界に目を向けることがいかに大事か、それをするための道具、英語が大切かを語ったり。はたまた彼らの人生相談に乗ったり(笑)楽しかったですね。その子たちに『全米オープンに出るようになったら絶対に応援に行くから!』と約束していて、みんな『は~い!』なんて言っててね。そうしているうちに、何人かが本当に出場するようになったんです。とても感動しましたね。最近は2年前に山中夏雄コーチが連れてきた時に岩本監督の紹介で坂本怜選手にも出会いました。とても屈託のない素晴らしい青年だと思います。どんどん上にいってほしいです」

アメリカ遠征に来た尾﨑里紗(写真左)とともに

2019年にフロリダ大学で行われた16歳以下の男子国別対抗戦「ジュニアデビスカップ」で優勝した時の写真。望月慎太郎(左から3人目)らとともに
「自分の周りの友人は最初『ジュニアって子供でしょ』と言うのですが、実際に見るとそれはすごいレベルだなと驚きます。
――テニスの面ではアメリカでやる意味があると。しかし、良いことばかりではないですよね?
「アメリカに34年ほど住むと、ジュニアの葛藤も体感する時があります。このままプロに行くべきか?大学に行くべきなのか?とかです。海外に住もうということになると先々を読まないと行けなくなります。アメリカで仕事をして住み続けるか、それとも日本に帰国するかのようなことです。特にビザの話は大切で、フラッとやって来てビザが取れなくなって帰ったという話はよくあることです。学生ビザが終わったら就労ビザはどうするの?など早めに考えることは大事なことだと思います。単に若い時に、試しにアメリカの文化と英語を学びたいだけだったら、ガチガチのところに行かなくてもいいんです」
「16歳の頃、ハリーホップマン(現サドルブルック)の前にサマーキャンプでカリフォルニアの「カーメルバレー」(CVTC Carmel Valley Tennis Camp)のサマーキャンプに行っていたのですが、テニスは4時間。毎晩楽しめるようなアクテビティもありました。テニスが中心にありながらも、どこか話をしたくなるような雰囲気で、『I Like Boris Becker』から会話が始まるんです。
「(英語の下地がないまま)競争的なところや英語学校などに行くと、楽しむ前にみんながピリピリしている状況は厳しいものがあるし覚悟が必要です。相当な志がないと10年は続かないと思います。結局、自身で就労ビザを取らないといけないという現実がありますし、就労ビザ(H1B)も延長できて6年。それ以上住みたいのならグリーンカード(永住権)という方法がありますが、そのためには(アメリカ人や永住権がある人と)結婚したり、もしくは勤める企業からのスポンサーが必要になります。仕事の場合は、『あなたがアメリカ人より優れている』ということを証明しなければなりませんから相当ハードルは高いんですよね」
――海外で生活をすることはタフなイメージがありますが、アメリカを選んだ理由を教えてください。
「家の教育方針がヨーロッパみたいにイエスかノーの選択をしなければいけない。それのせいで子供の頃には角が立って嫌われたり、仲間外れの元になったりすることもあったんです…。でも、アメリカ・カリフォルニアのテニスキャンプに行ったとき私の言うことに耳を傾けてもらえて、年上、年下、関係なく同じ態度で接してくれたんです。テニスでは(当時の日本の部活動にあった)球拾いだけさせられるという世界もありません。その体験を通じて、『なんて大らかな所だろう!これだから皆伸び伸びして強いのか!僕はこの国に絶対来るんだ!』と15歳の時思ったんです」
「18歳になってようやくここにきたのですが、英語がちょっと話せるぐらいで『歴史の教科書40ページ明日まで読んできて』となると無理ですよね。1年目で泣きそうになることもたくさんありましたが、高校の先生や同級生に啖呵切ってアメリカに来た手前、絶対に帰れないと思い、僕にとっては珍しく必死に色々頑張りましたね(笑) 今となってはあの頃の必死さをもう一度思い出さないといけないなと思っているのですが、その必死さはアスリートが勝とうとしているも感じと似ているかと思います。
「アメリカに渡り、学生ビザ、就労ビザ、そして永住権にたどり着くまでは『明日、クビになったらどうしょう』『会社がなくなったらどうしょう』と毎朝毎晩心配ばかりしていました。『今、会社が赤字だから解雇しないといけない』ということはアメリカではよくあることですが、もし解雇の当落線上にアメリカ人と比べ同じ能力なら間違いなく外国人が解雇される確率が高くなることは明白です。この国に居たいと思うのであればこの国に貢献することをしなければなりません。なので、毎日アメリカ人より早く出社し、彼らより残業もしました。彼らが1の仕事をするなら1.5、2倍の仕事をして平等と考えていましたね」
――テニス留学後にアメリカで就職したいと考えている学生がいるかもしれません、よろしければ簡単に職歴などお伝えいただけますか?
「大学を出てから初めての仕事はテレビの音響技師でした。その会社のインターンの面接で最終選考の3名に選ばれインターンを3ヵ月した後にアメリカ人ではない私が採用されました。他の2人が専門知識など持ち合わせており、アピールしながら仕事をするのに対し、私はボスに『ここで座ってみていろ』と言われたことだけをきちっとこなすことに徹していました。そのボスが私を選んだ理由として『技術的なことは覚えれば誰にでもできる、だがお前は人当たりがいい、そして言ったことをきちんとするから』と言ってくれました。『ピープルスキル(People Skills)が良いからあのインターン(和田氏)を採用した方が良い』と色々なプロデューサーや業界関係者が私を推薦してくれたみたいです。人が良くないと最終的に会社にとってマイナスにしなからないと言っていただきました」
「その次に転職をした先は、その正反対で金融情報会社で現実的なことしか言わないボスの元で7年間働きました。口は悪いけど決して間違ったことは言わない人でした。ですが、それで辞めていく人は多くいました。
――リーマンショック(2008年)などもあり大変な時代を生き抜いてこられたと想像します。
「でも、その中にはいつも“テニス”があり、救われました。他にも友達はいましたが、テニスで作られた友達はたくさんいるんですよね。岩本功ジュニアデ杯監督が良い例ですが、どんどん派生していて多種多様なバックグラウンドの方と出会えることができました。また、(昨年母親が他界し)辛い時もスクールに通いました。辛いけど助けてくれる、テニスをやっている間はその世界に居させてくれる。気心知れた友達や仲間とテニスやっていて良かったと思ったことは数知れません。もちろん、人によって趣味は違いますが、その趣味に助けられることは少なからずともあるはずです」
――テニスへの感謝の気持ちから毎年全米オープンを観戦に来られるのですね。
「私はテニスに対して恩返しするものがあります。
「全米オープンジュニアでも仕事の合間を縫って、知り合いの選手が勝ち残っている限り応援に行くようにしています。何か必要なものがあるなら調達したり、変な話、洗濯までしたことがあります(笑)何週間も遠征してここに辿り着いたらしく、試合や練習でコインランドリーにも行けない、といった状況でした。それもこれもテニス、そしてテニスの世界を30年以上に渡って見せてくれた岩本監督のおかげですね」
――接していたジュニアで印象に残っている選手はいますか?
「西岡選手のジュニア時代は凄かったですね。理由としては“絶対負けたくない感”がにじみ出ていたからです。当時から観戦していてテニスが楽しいし、一生懸命なんですよね。たぶん彼は反骨精神の塊だと思うんですよ。それが彼の試合に勝つ原動力であったと思います。当時、彼の覇気のあるプレーを気に入っていたのですが、巷ではプロでやっていくには身長が小さいのではないかという声が大半でした。そんな中、『今日負けると命を落としかねない』ような雰囲気でした。その反動が良くも悪くも気性の激しさに出るのかと思います」

ジュニア時代の内田海智(写真左)や西岡良仁(同右)らと
「フロリダ遠征をサポートした際、横に座っていた東ヨーロッパの出身のコーチに日本人選手の印象について聞く機会がありました。彼は単刀直入に『綺麗なテニスをするが強くない』ということを話してくれました。『日本人選手には強い子もいると思うが、今日負けても屋根のあるところで寝れる安心感がある。この子たちは練習へ行くにも戦車の横を通り、スナイパーがたくさんいるような国から来ている。必死になって試合に勝ち、プロになって親を国外に出したいという使命がある』と。正直、それを聞いた時はショックでしたね。生活に恵まれていない国の選手は、それをエネルギーにして勝っていくことをテニスから見ました。トッププロの中にもそういうところをくぐり抜けてきた選手はいるはずで、ジョコビッチもその一人ですよね。その選手たちがどういう環境から育ってきたのかということにも興味が湧いてくるところです」
――ハングリー精神という捉え方がスポーツを強くすると。
「ジュニアの引率のお手伝いをしていてよくジュニアに言っていたことは、一般的にテニスはお金がかかるスポーツだという自覚を選手に伝えました。空気を入れることができるボールとゴールがあれば出来るバスケットボールなどと比べ、消耗頻度の高いラケットやシューズがあること、ガットが切れても張り替えできること、断続的に新しいボールだって必要でそれを主に金銭でサポートしてくれる御両親への感謝を忘れないで欲しい、と言ったことがあります」
――アメリカで生きていくということは、どういうことなのでしょうか?
「人のことを考えすぎない方がいいと思うんです。『こうしたら悪いんじゃないか?』とか多すぎる傾向にあるように思います。そして、言葉が上達すると文化が見えるんです。日本から来て、自分の名前だけ言って挨拶している程度ではすべてが美しく楽しく感じますが、言葉を覚えて会話ができてくると意思表示の仕方がわからなくてたじろいでしまう。『食べたいの?』『食べたくないの?』みたいな話まで、どうしてほしいのか言ってくれないと相手が困るという視点は必要です。テニスで言う「イン」「アウト」なのかハッキリすると言うのが、こちらの生活ではとても大事なポイントかも知れません」
「それから、暮らせばその土地の汚いこと、嫌な気質も見えてくるものです。そんな時にそれでもここに居続けて頑張ろうと思うか、帰国するかの葛藤に苛まれるわけです。もちろん、それは日本人コミュニティーにいるのではなく、現地の文化や民族にどっぷり浸かっての話です。私は米国に行って2年半くらい親と電話した以外、日本語を喋らない時もありました。辛い時もありましたが、それが文化を理解する上で一番の近道ですし、辛さよりそれを楽しんでいたように思います。その経験がのちに生きてくるわけです」
――テニスを応援してくださる方や企業の方が投資先として広がっていくことについてはいかがでしょうか。
「テニスって投資先として難しいスポーツです。テニスが大好きな私が冷静に見てもメジャーなスポーツでもないんですよね。一般的に頭に思い浮かぶ、将棋で言えば藤井聡太七冠や野球の大谷翔平選手、じゃあ日本の有名なテニス選手で誰を知っているかと言えば松岡修造さんと錦織圭選手がメインでないでしょうか。西岡選手がアトランタのツアー大会で優勝してもテレビではあまり出ない。正直、マッチポイントの瞬間だけでも出して欲しいですよ。いつもオリンピックや野球の話題が独占してしまいますし、その波がテニスまで来るにはどうするかではないでしょうか」
「それはやっぱり西岡選手や望月慎太郎選手をはじめ、坂本怜選手を筆頭に若手の活躍に期待したいですね。しかし、メディアや情報発信源がもっとテニスを盛り上げていかないと。私たちの世代が高校生の頃は松岡さんが“日本人として”活躍し、テニス少年に『自分も世界でやってみたい』という夢を与えてくれましたし、誰でもジョン・マッケンローやビヨン・ボルグの名前は知っていた。メジャーなスポーツの一つで、地上波でやっていた影響もあり、誰でもラケットを持って街を歩いているようなあの雰囲気を出さないと層の厚さは出てこないと思います」
――日米双方の違った視点からご意見を伺うことができました。ありがとうございます。