Jリーグでも活躍した稲本 photo/Getty Images
異国での1年
2001年夏、ノースロンドンの話題をさらったのはソル・キャンベルの電撃移籍だったが、その陰でアーセナルの歴史に新たな1ページが刻まれていた。稲本潤一がガンバ大阪からの期限付き移籍で加入し、クラブ史上初のアジア出身選手となったのである。
当時の稲本は、2002年日韓ワールドカップを翌年に控えた日本代表の主力であり、2000年にはAFCアジアカップで優勝に貢献。アーセン・ヴェンゲル氏は彼を「フィジカルが強く、パス能力にも優れた選手」と高く評価し「その熱意と才能は今季の我々の戦力になるだろう」と歓迎の言葉を贈った。
だが、現実は厳しかった。稲本はアーセナルで出場機会を得られず、文化や言語の壁に直面する日々が続いた。「最初の2週間は本当にきつかったし、少しホームシックになった」と振り返り「マスコミの注目も想像以上で驚いた」と語っている。
それでも彼には、頼れる存在がいた。日本でも指導経験のあるヴェンゲル氏は、稲本の精神的な支えとなった。「彼は常にトレーニングで支えてくれた。私のように初めて欧州に来た選手の気持ちを理解していたと思う」と感謝を述べている。
アーセナルでは出番こそ少なかったが、稲本はその環境で得た経験を糧にキャリアを築いていく。2002年W杯では日本代表の中心として2ゴールを挙げ、その後フルアムやウェストブロムウィッチ・アルビオン、カーディフ・シティなどイングランドで計5シーズンを過ごした。
「出られなかったのは仕方がないと思っていた。毎日ハイレベルな選手と練習して多くを学べたし、ヨーロッパ初挑戦だったので悔しさはなかった」と稲本は述懐している。
アーセナルという舞台で過ごした1年は、確かに短かった。しかし、クラブが築いた「初のアジア人選手」という道筋は、その後に続く多くの選手たちにとっても価値ある道しるべとなったはずである。