経済小説家・黒木亮氏が円安時代におすすめするジョージア旅行。後編ではアルプス級の絶景と世界遺産の秘境、旧ソ連と現代が共存するトビリシの旧市街など、ジョージアの奥深い魅力を深掘りします。


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ロシアの脅威、アメリカへの憧れ、社会主義の実験跡

▼前編
2026年1月2日: 【黒木亮】円安でも満喫可能!絶景と美食のジョージアを旅する


 翌日、午前8時33分、ツアー会社の黒いベンツでアパート前を出発。この日の目的地は、スヴァネティ観光の拠点メスティア(トビリシから山道を含め約451km)。若いバックパッカーたちはマルシュルートカと呼ばれる公共のミニバスを乗り継いだりして、10時間くらいかけて行くが、さすがにこの年では厳しく、477ポンド(約9万5,400円)を払い、3日間の専用車を雇った。


 運転手兼ガイドはジョージ(George)という30歳すぎの口ひげと頬ひげを生やした男性。細身で精悍(せいかん)な感じで、少しトルコの遊牧民のような雰囲気がある。


 大卒でこの仕事を9年やっていて、英語はかなりできる。月に3~4回スヴァネティ地方に客を乗せて行くそうで、客は欧米人、オーストラリア人、インド人が多く、アジア人も一部いるという。筆者と家内を見て、「チャイニーズ?」と聞いてきた。


黒木亮(くろき・りょう)

【黒木亮】ジョージア旅行記 後編:秘境の山岳地帯や旧市街を巡る
(写真:黒崎亜弓)経済小説家。1957年生まれ。早稲田大学法学部卒。エジプトのカイロ・アメリカン大学大学院修士(中東研究科)。都市銀行、証券会社、総合商社での勤務経験を持つ。2000年、国際協調融資の主幹事を巡る攻防を描いた『トップ・レフト』で作家デビュー。代表作に『巨大投資銀行』『カラ売り屋』『排出権商人』『鉄のあけぼの』『法服の王国』『アパレル興亡』『袈裟と駅伝』など多数。1988年より英国在住。

 市内を走っていると、あちらこちらにいろいろな人の大きな顔写真が貼ってある。いったい何なのかジョージに聞くと、近々統一地方選挙があるので、その候補者のポスターだという。


 1991年にソ連から独立したジョージアは、長年親欧米・反ロシア政策をとってきた。しかし、同国北西部のアブハジアと中央北部の南オセチアは、ロシアの強い影響下で実質的な独立状態を保っている。日本にたとえるなら、九州と北陸が中央政府に反旗を翻しているようなものだ。


 こうした状況を打開するため、2008年8月にジョージア軍は南オセチアに対し軍事介入を行い、アブハジアとも衝突した。

しかし、両地域を支援するロシアの圧倒的な軍事力の前に、わずか5日間で敗北している。


 この軍事的敗北、汚職問題、刑務所での拷問などで国民の不満が高まり、2012年の国会議員選挙でミヘイル・サアカシュヴィリ大統領の与党「統一国民運動」が敗北。野党「ジョージアの夢」が政権を奪取した。


「ジョージアの夢」は、1990年代にソ連崩壊後のロシアで銀行業、鉄鋼業、通信業などで大もうけし、富の源泉がロシアにあるジョージア人、ビジナ・イヴァニシヴィリ氏が立ち上げた政党だ。


 新政権は2024年11月に、欧州連合(EU)加盟手続きを2028年末まで開始しないと発表したりして、反ロシア感情の強い国民の猛反発を受けた。トビリシ市中心部にある国会議事堂前では、親ロシア政策に反対する人々がテントを張って座り込みをしている。少し前のウクライナに似た状況で、昨今の欧州諸国でもよく見られる政治風景ともいえる。


 トビリシを出ると、幅の広い片側2車線の立派なハイウェーが延び、100kmの速度で走り続ける。車は欧州と同じ右側通行である。ジョージは左手でハンドルを握り、右手でスマホを操作したり、話したりしながら、対向車線に出て追い越しをしたりするので、ちょっと怖い。ただ運転の腕は相当いいようだ。


 そこそこ大きなベンツなので、シートも広く、座っていて快適である。

エジプトに留学していた1986年に、ヨルダンのアンマンからペトラ遺跡まで往復470kmをごく普通のタクシーで日帰りしたときはへとへとになったが、それよりは格段に楽である。


 2時間ほど走ったところで、大型のドライブインで休憩。駐車場には観光バスが何台も停まっている。建物内にスーパーマーケットが入っており、ウェンディーズ、ダンキンドーナツ、サブウェイなど、米系ファストフード店が多い。


 ジョージアでは、マクドナルドやKFCも多く、人々の欧米志向、とりわけ米国への憧れを感じさせる。マクドナルドは日本より値段が高いが、それでも人々は金をはたいて行く。


 30分ほど休憩して再びスタート。やがてハイウェーを離れ、片側1車線の田舎道に入る。道は一応舗装されているが、放し飼いの牛や豚がのんびりと道端で草を食んでいる。林が広がり、その間に2階建てで平らに近い四角垂の波型トタン屋根とレンガ壁の古い家々(農家)が点在している。


 時折現れる老朽化した団地や建物は明らかに旧ソ連時代のもので、このあたりまで来るとトビリシにあるような近代的な建物はほとんどない。


 やがて道はでこぼこになり、道路脇に黄色く色づき始めた白樺並木が現れ、遠くにポプラの林が見える。

道端で老夫婦がリヤカーに積んだスイカを売っており、大きなメス豚が車の前を悠然と横切る。キルギスなどで見た風景にそっくりで、社会主義という壮大な実験がこの国でも行われたことを実感させる。


山道を2時間半かけ、海抜1,500mまで上る

 メスティアの手前139kmのズグディディという町で1時間ほど昼食をとり、しばらく走って山道に入る。途中、欧州最大級という高さ271.5mのエングリ・アーチダムを1時間ほど見学。午後3時50分にダムを出発すると、道は本格的な山道になった。


 山の斜面の断崖につくられた曲がりくねった道は、やっと車がすれ違える程度。舗装はされているが、ガードレールがない箇所があったり、道が崩れ落ちて車がすれ違えない場所もあったりする。


 ほぼ平地(海抜100~110m)のズグディディから海抜約1,500mのメスティアまで上へ上へと上っていき、天に近づいていく感じ。


 午後5時50分ごろ、かなたに氷河を頂いたコーカサス山脈が見える。近くの山々は木々が生い茂って緑色だが、遠くの高い山々は黒っぽく、山頂付近の谷間や窪んだ場所に白い氷河が残っている。


 まもなく景色が、スヴァネティ地方に入ったと実感させる。スイスのような山あいの緑の斜面の放牧地で牛の群れが草を食み、あちらこちらに「血の復讐(ふくしゅう)の塔」が建っている。


一帯一路の影

 メスティアに到着したのは午後6時23分。スイスのツェルマットに似た雰囲気の町である。

植生も枝の先が上を向いたオウシュウトウヒ(マツ科トウヒ属)と思しい松などがツェルマットを想起させる。周囲を山々に囲まれていて、近くの山は緑色、遠くの山は木が生えていなくて茶色である。


 街には「血の復讐の塔」がたくさん建っている。スヴァネティ地方観光の拠点で、数多くの外国人観光客が通りを歩き、ウシュグリ村に行く4WD車の運転手たちが乗らないかと盛んに声をかけてくる。


メスティアの町
【黒木亮】ジョージア旅行記 後編:秘境の山岳地帯や旧市街を巡る
メスティアの町

 スヴァン人は白人で、若い女性などは色白で北欧っぽい雰囲気の人もいる。地理的に近いイラン、トルコ、東欧などの血を感じさせる人たちも少なくない。言語はスヴァン語で、同じ南コーカサス語族のジョージア語とのバイリンガルだ。


 夕食は町にあった中華レストランで、牛肉の野菜炒めご飯とビール。テーブルから調理場が見え、若い中国人の男性2、3人が働いていて、こんな秘境みたいな場所にも中国人がいて、店を経営していることに驚く。


 ジョージアでは韓国人以上に中国系の人々(おそらく本土からの中国人)を数多く見かける。ハイウェーを走っていても道路脇に中国語の看板を掲げた建設事務所があったり、「中国建築」と漢字で書かれたセメントやアスファルトを格納したサイロが何基も立っていたりする。


 ジョージに聞くと、中国の建設会社が、ハイウェー、トンネル、港などの建設を請け負っているという。

値段が安く、大規模な融資も付いてくるので起用しているそうだが、安かろう悪かろうという面もあり、国に対する中国の影響力が大きくなるという批判もあるという。


いよいよ秘境、ウシュグリ村へ

 メスティアのホテルで一晩休息をとり、朝6時35分に起床。9月上旬だが、気温は8℃くらいでひんやりする。午前9時にジョージの運転するベンツでホテルを出発。ここからさらに山道を上るので、SUVにでも乗り換えるのかと思っていたが、ベンツE350は4 Matic(4輪駆動車)で、長い山道も問題ないようだ。


 天気はよく、空に雲はほとんどなく、付近の山々の眺めは絶景である。一帯の村々には「血の復讐」のおきてがあり、山の斜面のあちらこちらに「血の復讐の塔」が建っている。やっと車がすれ違えるくらいのアスファルトの道は、通る車もごくわずか。


 たまにヨーロッパ人と思しい男女のサイクリストとすれ違ったりするので、ここまできてサイクリングをやるなんて、さすがヨーロッパ人は自転車好きが多いんだなあ、オランダかドイツあたりの人たちかなあと思う。


 途中、遠くの山の斜面に「血の復讐の塔」がたくさんある集落が見えるビューポイントで写真撮影をしたり、「血の復讐の塔」がいくつもある村の中を通過したり、アスファルトが途切れてでこぼこの土の道を通ったり、崖沿いの道から深い緑の谷を観たりしながら700m程度の標高差を上り、午前10時過ぎ、ウシュグリ村に到着。ついに来たぞ!という思い。


 ウシュグリ村は約70世帯(200人程度)の小さな村である。200基以上の「血の復讐の塔」があり、その世にもまれな山岳景観は1996年にユネスコの世界遺産に登録された。


 緑の山あいで、遠くに氷河を頂いたシュハラ山(5,203m)が見え、絶景である。「血の復讐の塔」を見るだけならメスティアで十分だが、この絶景はここにしかない。村の中をエングリ・アーチダムに至るエングリ川が流れている。灰緑色の急流で、源流に近い。景色は美しいのだが、牛、馬、豚が放し飼いにされていて、ふんが至るところに落ちていて臭い。


ウシュグリ村とシュハラ山
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ウシュグリ村とシュハラ山

 10年くらい前から観光客が増えていて、今も複数のホテルなどが建設中で、欧米風のモダンなカフェもある。ジョージによると、若い人たちは皆町に出て、年寄りしか残っていないそうだ。


「血の復讐」は現代の仇討ち

「血の復讐の塔」はだいたい中世の9世紀から12世紀ごろに建てられたものだ。「血の復讐」は2000年ごろまで行われており、復讐の対象は殺人などを犯した本人に限らず、一族が対象になる。復讐が行われると、されたほうが今度は復讐するので、永遠の復讐の連鎖になる。


 ただし村には何人かの長老的な調停者がおり、殺人に対して牛20頭程度の「血代」を払うことで和解させ、復讐の連鎖を止めるケースも少なくなかったそうだ。現在ジョージアでは、「血の復讐」は計画殺人として7~15年の懲役刑が科されるようになり、2012~2015年頃の研究や報道では、もう行われていないとされる。


ウシュグリ村の「血の復讐の塔」
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ウシュグリ村の「血の復讐の塔」

 この「血の復讐」という因習は、ジョージアだけでなく、東欧(アルバニア、ブルガリア、ルーマニア)、トルコ、南コーカサス(アルメニア、アゼルバイジャン)、イラン、アフガニスタン、中央アジアにも存在し、現在も続いている地域があるという。


 警察や司法の保護が十分に行き届いていない場所では、こうした私刑が補完的に認められる傾向があり、幕府に届け出て認可されていた江戸時代の仇討ちもその一種だろう。


「血の復讐の塔」は、現在は空き家になって観光客も中に入れるものや、一般の民家や民宿、あるいは博物館として使われているものなどがある。高さはだいたい5~7階建てである。実際に入ってみたが、防御のために地上に出入り口はなく、はしごを使って2階から出入りするようになっている。


 地下や1階など、一番下の階が相当広く、そこに一族30人くらいが家畜と一緒に住んでいたという。上の階には内部のはしごを使って登り、各階には銃眼程度の大きさの覗き窓しかなく、上に行けば行くほど狭くなる。


 最頂部はかろうじて人が立てる程度の高さで、平らに近い切妻形の屋根が載っている。覗き窓から襲ってくる敵を監視し、発砲して応戦したそうで、塔というより要塞だ。つくった当時の人々は命を守るのに必死で、まさかこれが1000年後に、一大観光資源になるとは想像もしていなかっただろう。


コーカサス山脈の絶景に驚嘆

「血の復讐の塔」に登ったほか、丘の上の教会を見学したり、村を散策したり、カフェでお茶を飲んだりして3時間ほど過ごし、午後1時過ぎにウシュグリ村を後にし、帰途につく。途中、亡くなった仲のよい夫婦が鱒になって転生したという伝説がある「愛の塔」と呼ばれる、エングリ川沿いの塔などを見学し、午後3時ごろメスティアに戻った。


 その後、ズルルディ(Zuruldi)山の麓に行き、一人25ラリ(約1,450円)を払ってリフトに乗り、標高1,428m地点から1,868m地点まで上る。そこでロープウェイ(ゴンドラ)に乗り換え、レストランや展望台がある2,336mの山頂まで上った。


ズルルディ山から見たコーカサス山脈とロープウェイ
【黒木亮】ジョージア旅行記 後編:秘境の山岳地帯や旧市街を巡る
ズルルディ山から見たコーカサス山脈とロープウェイ

 山頂では、想像もしていなかった絶景が眼前に展開し、息を呑んだ。北側正面に、標高4,710mのウシュバ(Ushba)山がどっしりと聳えていた。矢じりのように尖った山頂の形が、チリの有名なトーレス・デル・パイネ国立公園のパイネ・グランデ峰(標高3,050m)に似ていて、氷河はこういう形の山をつくるのだなあと感じ入る。


 その左右に、レデシュティ山(3,454m)、マゼリ山(4,012m)、チャティン・タウ山(4,411m)、ヴレヤ山(4,072m)など、氷河を頂いた青いコーカサス山脈の険しく尖った山々が、パノラマのように展開している。


 その向こうはロシアだ。厳しさや荒々しさを感じさせる眺めは筆者好みである。いつかパイネ・グランデ峰を見るためにチリに行こうと思っていたが、「こりゃあチリまで行く必要もないなあ」と思う。


 3年前にツェルマットで3,000m級の三つの展望台(それぞれ3,883m、3,103m、3,090m)に上れる1日券に195フラン(当時2万9,154円)を払ったが、それに比べると1,450円はタダ同然だ。


 翌日、午前9時にメスティアを出発し、トビリシへの帰路についた。途中、休憩、昼食、峡谷見物などを挟み、後半、工事や事故のために道路が渋滞したため2時間くらい予定から遅れ、トビリシ到着は夜の8時20分。


 乗り心地のいいベンツとはいえ、11時間20分の長旅は、さすがに疲れた。アパートに戻って「キンズマラウリ(ジョージア特産の中甘口ワイン)」を飲んだが、まだ体が揺れている感じで、地震でも起きたのかと思う。


趣のあるトビリシ旧市街

 翌日から2日間、疲れを癒やしつつ、のんびりトビリシの街を見て歩いた。旧市街は、石畳で丁寧に舗装され、潤いのある緑の街路樹があり、建物もクラシックで趣がある。


「クロックタワー」(時計の斜塔)とそばの教会を観て、市内を貫流するムトゥクヴァリ川を望むイラン料理のレストランで、チェロ・ケバブ・クビデ(ミンチ肉のケバブ)を食べた。


 昼食後、黄色がかった石造りの外壁が美しいジョージア正教会の総本山シオニ教会に行き、地下鉄でアヴラバリ駅まで移動し、駅から昔ながらの商店を観ながら坂道を登り、ジョージア最大のサメバ(至聖三者)大聖堂を観て、路地の小さなカフェでコーヒーを飲んだ。


 ムトゥクヴァリ川沿いに建つメテヒ教会と乗馬姿の人物の銅像を観て、銀色の大きな「ジョージアの母像」があるナリカラ要塞の丘にロープウェイ(一人往復5ラリ=約290円)で上る。


 帰路のロープウェイでは、同じゴンドラに乗り合わせた愛想のよい男性2人、女性1人の白人グループに写真を撮ってもらう。「どこから来たの?」と英語で聞かれ、「日本」と答え、逆に聞くと「ベラルーシ」という。初めてベラルーシ人に会ったので少し驚いたが、地理的に近いので、遊びにきているらしかった。


 ベラルーシはロシアの親密国で、日本人がスパイ容疑で拘束されたりしているので、いい印象を持っていなかったが、相手はそんな思いに気づく様子もなく、にこにこしていた。


 ロンドンに帰る日は、夜明け前の3時に起床し、4時にアパートをチェックアウト。宿泊料金はテーブルの上に現金で置き、大家にWhatsAppで写真を送る。こんな時刻に予約したタクシーがちゃんと来るか心配だったが、15分前に来た。小雨が降る真っ暗な道をトビリシ空港へ。


 空港の手荷物検査の担当者は、真面目で丁重だが、最初からこちらを犯人扱いしているような顔つきや調べ方で、ソ連的な匂いがした。免税のワインショップの巨大さには驚いた。BA891便で午前7時35分離陸。エアバスA320の機内は満席。午前10時12分(ジョージア時間午後1時12分)、ロンドン・ヒースロー空港に着陸。帰路のフライト時間は5時間37分だった。


 初めてのジョージアでは、未知のものをたくさん見られ、欧州と世界情勢の一端にも触れることができ、予想を超えた素晴らしい旅だった。ビザなしで滞在できる期間が1年と優遇されていて、物価も安いので、ワーケーションをしている日本人もいるようだ。知られざる穴場といえる国で、治安もよいので、2026年の旅先の候補に加えてはいかがだろうか?


<終わり>


(呉 太淳)

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