YouTubeもNetflixもない時代、人々を夢中にさせた“物語り”の芸があった——。“たまたま”講談界に入った四代目・玉田玉秀斎(たまだ・ぎょくしゅうさい)が、知られざる一門の歴史物語をたどります。

▼みなさん、こんにちは

 日本の伝統話芸、講談を生業としております四代目・玉田玉秀斎と申します。

 これから始まる連載「物語りの遺伝子 “忍者”を広めた講談・玉田家ストーリー」、どうぞよろしくお願いいたします。

 さて、皆さんは講談をご覧いただいたことはあるでしょうか。

 人間国宝の神田松鯉(かんだ・しょうり)先生、チケットの取れない人気者・神田伯山(かんだ・はくざん)さんをはじめ、5児の母でありながら第一線を走り続ける一龍斎貞鏡(いちりゅうさい・ていきょう)さん、声優界でもトップランナーの一龍斎貞友(いちりゅうさい・ていゆう)先生、そして鈴本演芸場のトリを任される宝井琴調(たからい・きんちょう)先生など、今、講談師は様々な舞台で活躍しております。

▼たまたま入ってしまった講談

 しかし、僕が入門した2001年当時、「講談をしています」というと、「何それ?」と言われた時代でした。

 少し演芸に詳しい方でも、「あぁ~、あの三味線の!!」と言われることが非常に多かったのです。ちなみに三味線と一緒に物語るのは浪曲ですので、お間違いなく。

 そんな人気がなかった講談界になぜ入ったのか、この質問はよくされました。

 その答えは「たまたま」なんです。

 「またまた~、たまたまで入るような世界じゃないでしょう」と聞き直されるのですが、本当に「たまたま」なんです。

 そんなことを言っても伝統的な世界、「入門をさせてください」と師匠に頼み込まないと入れないでしょうと思った方、その通りです。一般的にはそれが正解です。

テストならそれが〇です。

 でも、僕の場合は、師匠から「旭堂南陽(きょくどう・なんよう)という名前を用意してある。入門しないか」という言葉を頂き、「よろしくお願いします」とお答えして、芸名を頂きました。

 「入門しないか」との言葉がなければ、違う人生を歩んでいたと思います。

▼南陽という名前

 ここまでお読みいただき、入門時の名前と今の名前が違うことに気付かれた方は鋭いお方です。

 そうなんです。入門当時は旭堂南陽(きょくどう・なんよう)という芸名でした。師匠が当時、旭堂小南陵(きょくどう・こなんりょう、後の四代目・旭堂南陵)でしたので、そのお名前の一文字を頂いて「南陽」と名付けていただきました。

 筆頭弟子が南太平洋兄さん(現・南鷹〈なんおう〉)、その次が南半球兄さんでした。南太平洋を大きくして南半球、南半球をさらに大きくして「南に太陽の陽で南陽や」というのが師匠の理由でした。

 その当時は余り気にしたことはなかったのですが、後になって実にいい名前を頂いたことに気付くのでした。無知というのは恐ろしいものです。

 無知なのに、なぜ伝統話芸の世界に近づいたのか、そこのお話は高校受験にさかのぼります。

 「どこを受験するのか」を考えていた時に、小さい頃から母親に言われていた言葉がよみがえりました。それは…。

この続きは、また次回のお楽しみ。

(この終わり方は、講談の続き読みの手法に倣っております)

■四代目・玉田玉秀斎

ロータリー交換留学生としてスウェーデンに留学中、異文化に触れたことをきっかけに日本文化に興味を持ち、帰国後に講談師としての道を歩み始める。英語による講談や音楽とのコラボレーション、観光地を題材にした講談など、伝統と現代の融合を図る一方、文楽や吉本新喜劇との共演、オーダーメイド講談も精力的に行っている。

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