NHKで好評放送中の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」。“江戸のメディア王”と呼ばれた“蔦重”こと蔦屋重三郎(横浜流星)の波乱万丈の生涯を描く物語は、まもなくクライマックスを迎える。

これまで、いくどとなく視聴者を驚かせてきたが、第46回「曽我祭の変」ではなぞの絵師“写楽”が、蔦重の下で歌麿(染谷将太)ら当時の絵師総動員で進められた一大プロジェクトだったというサプライズが披露された。全48回の脚本執筆を終えた脚本家の森下佳子が、その舞台裏や蔦重を演じた横浜流星の印象などを語ってくれた。

-写楽をどのように扱うのか、当初から気になっていた視聴者も多かったと思いますが、当時の絵師総動員で進められた一大プロジェクトという展開はサプライズでした。どのような経緯でこのアイデアが生まれたのでしょうか。

 「写楽複数人説」を採ることは、最初から決めていました。もちろん現在、美術史の世界では別の定説で落ち着いていることは知っていますが、写楽の絵をざっと並べてみたとき、複数人説の方がしっくりくると思ったんです。1年に満たない短期間に、膨大な数の絵を世に出しているので、果たして本当にこれを一人で描いたのかという疑問があって。しかも、四期に分かれた作品のうち、一期は役者の大首絵で、二期は全身像ですが、二期は一期で描いた顔をコピペしたような絵なんです。それらを考え合わせると、「何人かで手分けして描いたのでは…?」という気がして。その中心に歌麿を置くことも、今はあまり顧みられませんが、かつては「写楽=歌麿説」が唱えられていたことから考えました。

-ドラマ的にもクライマックスにふさわしい盛り上がりでした。

 私は、蔦重や歌麿たちが最終的にたどり着いたゴールが写楽だと思っています。

元々は鈴木春信から始まった錦絵ですが、当初は男か女かもわからない人形のような描かれ方をしていました。そこから徐々にさまざまな絵師が登場し、それぞれの画風が確立されていった。例えば、役者絵なら勝川春章が似せ絵の方向に振っていったりして。そういう文脈の中で、歌麿も写生をするようになったのではないかと。当時の絵師は、基本的に以前の絵を模写する形で学び、例えば花を描くときも、本物の花を見て描いた人はほとんどいません。だから、歌麿が実物を見て精緻な『画本虫撰』(第34回に登場)を描いたのは、非常に画期的なことでした。そこから、歌麿の美人絵は、定型を踏まえた上で、人の表情を細かく描き分けるようになり、どんどんリアリズムに寄っていったんです。

-なるほど。

 その一方で、山東京伝が吉原の内幕を書いた「傾城買四十八手」(第37回に登場)も、それまでの黄表紙や洒落本とは異なり、登場人物の描写や会話がよりリアルになっているんです。そういう流れの先にあるのが、写楽ではないかと。そこから、蔦重たちが最後に打ち上げる祭の象徴が写楽であると解釈しました。

-そういうお考えが根底にあったわけですね。

 ただ、舞台の幕が開いてから描くとなると、公演中に一期の28枚をそろえて出すことは難しい。だから、稽古を見て描いたはずですが、だとすれば、なぜ正体がバレなかったのかというなぞが残ります。そこで、大勢で稽古を見に行って…という形にして、劇中ではつじつまを合わせました。

-興味深い裏話をありがとうございます。ところで、この件も含め、毎回のように視聴者を驚かせる展開が続き、SNSでもたびたび盛り上がっていました。中には、視聴者から愛されたキャラクターが悲劇的な結末を迎えたことから、ある種の称賛として「森下脚本は鬼!」などといった反響もありましたが、どのように受け止めていましたか。

 皆さんにご覧いただけることが第一なので、ありがたく拝見していました。同時に心の中で、「冷静に考えて! 殺したのは私じゃない、史実よ!」と突っ込んでいました(笑)。

―確かにその通りですね(笑)。

 ただ、大半は史実通りですが、(小田)新之助(井之脇海)とふく(=うつせみ/小野花梨)ととよ坊の一家、序盤に登場した蔦重の恩人の花魁・朝顔(愛希れいか)など、一部に私が創作したオリジナルキャラもいます。というのも、当時の飢饉(ききん)や天災の被害の大きさを伝えるとき、死体の山で語られることが多いのですが、それを見ても、いまひとつ胸に迫ってこないんですよね。それは多分、相手が知らない人だからだろうなと。

そこで、今回はその人の人生を語った上で犠牲になってもらおうと。

-新之助とふくのカップルは、応援する視聴者も多く、その死を悲しむ声も大きかったですね。

 新之助も、あの打ち壊しにはリーダーがいたという説があり、あののぼりも実際に残っているんです。そのリーダーを書きたいと思って考えたのが、新之助でした。だから、死ぬことは最初から決まっていたので、新之助やふくに関しては、皆さんから怒られることが大事なんだろうなとは思っていました。

-そのほか、視聴者の反響で印象的だったものはありますか。

 「三浦庄司(原田泰造)黒幕説」「三浦スパイ説」が出てきたときは驚きました。全く頭になかったことだったので、皆さんの鋭い考察に驚くと同時に、「その手があったか! でも、もう後戻りできない!」と(笑)。それくらい真剣に見てくださっていることがうれしく、ありがたかったです。

-続いて、蔦重を演じ切った横浜流星さんの印象をお聞かせください。

 横浜さんには、むき出しの自分をゴロンと差し出すような「捨て身」の印象があり、それは最初から最後まで変わりませんでした。ご本人は、それほどじょう舌な方ではないと思うので、あそこまでおしゃべりな役を生きるのは、大変だったと思います。

せりふの量も多いので、大きな負担をかけたでしょうし。最後にお会いしたときは、本当にやせていましたから。そういう意味では、“求道者”という言葉がぴったりな方です。

-蔦重を演じる横浜さんを見て、せりふの書き方などが変わった部分もあるのでしょうか。

 求道者のような方に対して、ご本人に寄せるのも失礼かと思い、そういう書き方は一切しませんでした。ただ、ときどき横浜さんから台本について質問が来ることはありました。例えば、「蔦重はなぜ日本橋に行こうと思ったのでしょうか。僕なら行かない気がします」といった感じで。そういうときは、一緒に答えを考えたりして。だから、きちんと筋が通るように書くことは心掛けました。その点、横浜さんは心の動きを大切にして、外側からではなく、内側から役を作っていく方なのでしょうね。

-これまでストイックなイメージの強かった横浜さんが、陽気な江戸っ子の蔦重を演じている点が新鮮で、俳優としての新たな魅力にも気付かされました。

 きっと、陽気な江戸っ子の部分に関しても、ものすごく考えて演じてくださったんだと思います。それこそ、「陽気な江戸っ子を求道する」というか。変顔や平賀源内のまねなど、私が期待した以上のこともしてくださいましたし。「そこまでやっていただき、ありがとうございます」という気持ちでテレビを見ていました。

-まもなく最終回を迎えますが、最後まで描き切った蔦重の生きざまをどのように受け止めていますか。

 蔦重は、さまざまな功績を残した人です。黄表紙や錦絵の流行を作ったこともちろん、流通網を整え、それを江戸から地方に広めていったのも、彼だと言われていますし。そういう意味では、広く世の中に笑いを届けた人で、それはとても尊いことだったのではないかと。笑いにはある種、不謹慎な部分もあるので、今もそうですが、世の中がしんどくなってくると、心の中では笑っても、おおっぴらには笑えない、という場面が生活の中でたくさん出てくる気がするんです。そんな時代に、財産を召し上げられても、仲間が死んでも、ふざけきった蔦重はあっぱれだなと。それはそれで、一つの立派な生き方だと思っています。

(取材・文/井上健一)

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