【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.4
高橋尚子さん(後編)
陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。
そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は2000年シドニー五輪で金メダルを獲得し、国民栄誉賞を受賞した他、世界記録の更新など数々の金字塔を打ち立てた「Qちゃん」こと高橋尚子さん。全3回のインタビュー後編は、シドニー五輪の"その後"。世界記録を更新してから、二度目の五輪出場を目指した長く険しい道のりを振り返ってもらった。
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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶
【2週連続で世界レベルの走りが可能なのか】
シドニー五輪で金メダルを獲り、国民的人気を博した高橋尚子が、次の目標として掲げたのがマラソンの世界記録樹立だった。当時の世界記録は、テグラ・ロルーペ(ケニア)の2時間20分34秒。それを更新するのはもちろん、女子初の2時間20分切りに、世界の注目が集まっていた。
その期待に応え、高橋は2001年9月30日のベルリンマラソンで、2時間19分46秒の世界記録をたたき出した。
「五輪で金メダルを獲り、世界記録をつくったところで、ようやく次のアテネ五輪に気持ちが切り替わりました」
ただ、この時、高橋にはもうひとつ挑戦したいことがあった。ベルリンで世界記録を出して終わりというのではなく、翌週のシカゴマラソンにも出場し、そこでもトップレベルの走りができるかどうか、自らの体力の限界にチャレンジするつもりでいたのだ。
当時、世界の主要レースに出場する場合、レースごとの間隔を最低でも3カ月は空けなければいけいない暗黙の規定があった。出場料と賞金が出るため、すべてのレースに登録し、ある程度の走りをすればお金を稼げてしまうからだ。そのルールを理解したうえで、高橋はベルリンで世界記録を出した場合、翌週のシカゴを「出場料なし」で走っても問題ないかを関係各所に事前に確認し、「大丈夫」という返事をもらっていた。
ところが、ドイツからアメリカに移動し、練習を再開しようとしたところで、日本から「出場は不可になった」と連絡を受けた。
「えっ、なんで?と思いましたよ。2週連続で世界レベルの走りが可能なのか、人間の新たな可能性を見出す実験で、やり遂げればいろいろな常識を覆すことができると思っていたんです。そういう新しいことに、自分の体を使ってトライするのはすごく面白いじゃないですか。それを(小出義雄)監督も了承してくれて一緒に取り組んでいたんですけど、直前にNGが出て......。その日は泣きながら20km走りました」
それでも高橋はすぐに気持ちを切り替え、リスタートした。アテネ五輪の出場権を得るために、まずは2003年パリ世界陸上の選考レースである、2002年11月に開催される東京国際女子マラソンをターゲットにして準備を進めた。ところが、同年7月のある日、小出監督から突然、「9月のベルリンマラソンに出なさい」と言われた。
「私は東京を走るために準備してきたので、最初は『出られません』と言ったんです。出るならちゃんと調整して、適当な感じで走りたくなかったんですけど、『出ない』と言うと、監督は『もう練習を見ない』みたいな感じになってしまって......。なぜ、そこまでベルリンにこだわったのかはわからなかったです。最終的に『ベルリンは全力でレースには出ますが、東京もちゃんと走らせてください』と伝え、出場を決めました」
そのベルリンマラソンでは2年連続優勝、マラソン6連勝を達成した。
【アテネ五輪の女子マラソンはテレビ観戦】
五輪最短切符をつかむ舞台であるパリ世界陸上への道は絶たれたが、アテネ五輪への道は絶たれたわけではない。高橋は翌2003年11月、五輪選考レースのひとつである東京国際女子マラソンに出場した。
当日の気温は24度。11月の平均よりかなり暑い、難しいコンディションだった。それでも、調子のよさを感じていた高橋はスタートから飛び出し、そのまま先頭でレースを展開。だが、30km過ぎに失速、エルフェネッシュ・アレム(エチオピア)に敗れて2位(2時間27分21秒)になり、マラソンでは6年10カ月ぶりの敗戦を喫した。
「レース前の練習を完璧にこなし、最高の状態に仕上がっていたのでいけるだろうと、変に浮き足立っているところがありました。もうちょっとレースに対して慎重、緻密にやらないといけなかったんですが、本当に調子がよくて、監督からも『すごいの出してやれ』と言われて、イケイケどんどんみたいな感じになってしまって......。たぶん私も含めて、チームのみんなも"ないもの"を数えてしまっていたんだと思います」
高橋が東京で勝てなかったことで、アテネ五輪の女子マラソン代表選手選考は難航した。パリ世界陸上で銀メダルを獲得した野口みずき(グローバリー)がすでに内定。
選考基準が不明瞭だったため議論を呼んだが、最終的に高橋は選出されず、2大会連続メダル獲得の夢は潰えた。
「選ばれなかった時は、監督に申し訳ないという気持ちが一番大きかったです。東京の結果を受けて、翌年3月の名古屋を走る選択肢もあったんですが、11月に東京を走り、さらに3月に代表に選ばれるためだけにすべてをかけて名古屋を走り、8月にアテネとなると、本来狙うべき本番で(いい状態で)走れなくなる可能性があり、それでは意味がないと思ったんです。
それで名古屋を回避したんですが、その選択と決断をしたのは私ですし、選考理由も理解できたので、そんなに(気持ちを)引きずることはなかったです」
アテネ五輪の女子マラソンはテレビ観戦した。30km過ぎにはシャンパンを用意し、野口が優勝した瞬間に皆で乾杯をした。シドニーから日本の金メダルがつながったと思うと自分のことのようにうれしかった。ただ、この2004年、高橋は故障続きでマラソンを一度も走れなかった。
「それでも、この年は一番うれし涙を流したんです。多くの方から励ましのお手紙をいただいて、メディアの皆さんも温かい言葉をかけてくれて、こんな私でも応援してくれるんだと思うと、涙が止まらなくて......。ケガもあって走れなくて、陸上選手としてはダメな1年でしたが、人としては人の温かさを感じることができて、すごくうれしい、人として成長できた1年でした」
【小出監督のもとを離れての最後の挑戦】
翌2005年5月、高橋は大きな決断をした。小出監督との11年間の師弟関係に終止符を打ち、「チームQ」で活動することを決め、ふたり揃っての記者会見を行なった。
「その頃は(思うように走れず)うだうだしていて、監督は『まだ(焦らなくて)いいよ』と言ってくれるんですが、私ももう33歳でしたし、いつまで陸上ができるかわからない。ぬるま湯につかっている感じで、このままだと次に進めないという危機感が大きかったです。
だから、監督から手を差し伸べてもらえないところに自分を置かないと踏み出していけない。それに、チーム(小出監督が率いる佐倉アスリートクラブ)には20名ぐらい選手がいたんですけど、監督は私とマンツーマンみたいな感じでした。いつまでも監督をひとり占めしているわけにはいかない。そう思って、小出監督のもとを卒業することを決めました」
チームQとして活動を始めたその年の11月、東京国際女子マラソンに出場。2年ぶりの復帰戦を見事、優勝で飾り、健在ぶりをアピール。2008年北京五輪に向けてリスタートした。そうして迎えた2008年3月、五輪の代表選考レースである名古屋国際女子マラソンに出場するも、スローペースの難しいレースになり、高橋は27位と惨敗。
「この時は、直前に中国で合宿していたんですが、下痢が続いて、40度ぐらいの高熱が出たりもして1カ月ほど体調不良が続きました。帰国して快復したと思ったのですが、体の芯にダメージが残っていたんでしょうね。スタートして7kmぐらいから腹痛が出て、その痛みと戦うだけでレースが終わってしまった感じでした」
レース後、高橋は「やっちゃいました。
翌2009年3月、すでに現役引退を表明していた高橋は、前年に悔しさを噛みしめた名古屋国際女子マラソンを最後の舞台に選んだ。記録を目指すのではなく、一般参加で沿道の声援に笑顔で応えながら、2時間52分23秒で完走した。その後はスポーツキャスターの他、マラソンや駅伝の解説、市民マラソン大会のゲストなど、精力的に活動を続けている。
高橋はマラソンを走ると決めた日から今まで、なぜ走ってきたのだろうか。
「楽しいからです。私の財産は金メダルではなく、それを通じていろいろな人に出会えたこと。それは走らないと得られないものでした。『楽しい』が私の原点なのです。現役の時、つらい練習が終わっても、最後に『探検ラン』と称した遊びの40~60分ジョギングをしていました。走るのが楽しいという原点回帰を毎日することができたのが、よかったのだと思います。
(終わり。文中敬称略)
高橋尚子(たかはし・なおこ)/1972年生まれ、岐阜市出身。県岐阜商業高校から大阪学院大学に進み、卒業後に小出義雄監督率いるリクルートに入社。1997年に積水化学へ移り、二度目のマラソンとなる1998年名古屋国際女子マラソンで日本記録を更新して初優勝。同年のアジア大会ではスタート直後から独走し、自身の持つ日本記録を4分以上も更新。2000年シドニー五輪で金メダルを獲得し、国民栄誉賞を受賞。2001年ベルリンマラソンで2時間19分46秒の世界記録(当時)を樹立。2008年に引退。現在はスポーツキャスター、市民マラソンのゲストなどの普及活動に精力的に取り組んでいる。