篠塚和典 追悼・長嶋茂雄 前編

 6月3日、プロ野球・読売巨人軍の選手、監督として活躍し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が逝去した。その長嶋氏と、巨人入団時から深い関係にある篠塚和典氏は、この件について当初は多くを語らずに沈黙していたが、少しの時間を経て現在の心境を語ってくれた。

「ミスター、どうして僕をドラフトで指名してくれたんですか?」...の画像はこちら >>

【いまだに「実感がわかない」】 

――長嶋さんの訃報は、どのような形で知りましたか?

篠塚和典(以下:篠塚) ミスター(長嶋茂雄氏)の一番近くにいた方々とお付き合いをしているのですが、6月3日の朝7時にそのうちひとりから携帯電話に着信があったんです。その時にピンときましたよ。その方とは時折お会いして話す機会があったのですが、「3月以降からミスターが電話に出られなくなった」と聞いていたので、「状態があまりよくないんだな......」とは感じていたんです。ただ、ある程度の覚悟はしつつも、それでも長く生きてほしいという思いでいました。

――訃報を受けて何を思いましたか?

篠塚 その次の日にミスターのご自宅に伺ったり、告別式にも行きましたけど、いまだに亡くなったという実感がまったくわかないんです。頻繁にミスターとお会いしていたら違ったのかもしれませんが、そうではなかったですから。「ミスターは今も病院でリハビリを頑張っている」という感じなんです。

――6月3日という日にちが、長嶋さんの背番号「3」にちなんでいたことが話題になりましたね。奇しくも、次女・長島三奈さんの誕生日でもありました。

篠塚 電話で訃報を聞いてしばらく呆然としていたのですが、テレビで流れているミスターの映像を見ている時に、「ミスターの背番号と同じだな」とは感じました。それと、自分の背番号が「6」なので、なんて言ったらいいのか難しいのですが、ミスターとのご縁というか、そういうことをしみじみ考えたりもしていました。

――弔問に訪れた時、長嶋さんにどのような思いを伝えましたか?

篠塚 長嶋さんのお顔を見ながら、「今まで本当にありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えました。いろいろとお世話になりましたし、その言葉だけですね。

【リハビリ、回復した姿を見せていた理由】

――長嶋さんは2004年に脳梗塞で倒れ、以降は長く過酷なリハビリが続きました。前向きにリハビリに励む長嶋さんの姿は、篠塚さんの目にどう映っていましたか?

篠塚 頑張るとか、あきらめないというのはミスターのモットーでもありましたし、オリンピックの野球日本代表でもう一度指揮を執りたいとか、ゴルフをやりたいとか、そういう思いがあることも聞いていました。多摩川のゴルフ練習場に行って、片手で練習もしていたようですし、強い気持ちをもってリハビリに取り組んでいたと思います。

 その成果もあって、なんとか歩けるまで回復していましたし、「人前に出なければいけないんだ」という気持ちで頑張っていたと思うんです。少しでも動けるようになったら、リハビリの途中でも積極的に球場に足を運んだりしていましたから。ただ、年齢を重ねて思うように体が動かせないこともあったと思いますが......そこは仕方ないですよね。

――2022年には脳出血で入院しましたが、その際も復活してファンの前に元気な姿を見せてくれました。

篠塚 リハビリに取り組む姿や元気に回復した姿を見せることで、同じ病気の方々を励まそうとしていたと思います。それと、ミスターの出身地である千葉県佐倉市で秋に行なわれている「長嶋茂雄少年野球教室」では、ご本人が子供たちを指導している期間(2014~17年)もありました。その時はみんなと一緒に球場内をぐるぐる回りながら、子供たちに声をかけていましたよ。

 グラウンドに戻るという気持ちは強かったはずですし、それを励みにリハビリに取り組んでいたと思います。自分もそんなミスターの熱い思いを感じ、野球教室の第1回から子供たちに野球を教えてきました。

――長嶋さんと最後にお会いしたのはいつですか?

篠塚 昨年8月に、定岡正二さんと一緒にお見舞いに行ったのが最後です。

その前には、長嶋さんが東京ドームに足を運ばれた際に、僕が解説などの仕事でドームにいることもあって、そこで顔を合わせたりしていました。「お元気ですか?」とご挨拶する程度ではありましたけどね。球場に来られているときは、お体の状態がよかったです。

【ミスターに聞いておきたかったこと】

――あらためて、篠塚さんにとって長嶋さんとはどういう存在ですか?

篠塚 体が弱かった自分をドラフト1位で指名していただき、巨人のユニフォームを着せてくれた恩人です。あの時、巨人のユニフォームを着ていなかったら今の自分はいないですし、ここまで野球に関する仕事はできていなかったと思います。現役時代は「長嶋さんのために」という思いでプレーしていて、目標とする人でもありました。表現は難しいですが、本当に"育ての親"だと思います。

――長嶋さんが(一次政権の)監督をやめる時、篠塚さんは「僕もやめます」と長嶋さんに電話していますね。「バカなことを言ってるんじゃないよ」と言われたそうですが、そのやりとりからも、篠塚さんの長嶋さんに対する思いや、おふたりの絆を感じます。

篠塚 振り返ると、なぜあんなことを言ったのか......とも思いますが、冗談で言ったわけではないですし、素直な気持ちでしたね。

――おふたりの関係は"二人三脚"という印象があり、いち監督、いち選手という関係を超越しているように感じます。

篠塚 そうですね......。

今思えば、ドラフトの前後の話をはじめ、ミスターにいろいろなことをズバズバ聞いておけばよかったなと。「どうして自分をドラフトで指名してくれたのか」とか、自分から聞いたことがなかったので。ミスターが監督で、自分が選手だった時代、ミスターが監督で自分がコーチだった時代など、もっともっといろいろなことを話しておけばよかったですね......。

 自分は、長嶋さんのほうから声をかけてもらうのを常に待っていましたから。巨人に入団した時からずっとそのスタンスだったので、なかなか接触できなかったというか......。それを最後まで貫いたといえばそうなりますし、それはそれでいいのですが、もっと図々しくてもよかったのかなって。「シノ、しつこいんだよ!」と言われるくらい声をかけてもよかったのかもしれません。

――今は、心にぽっかりと穴が空いたような感覚でしょうか?

篠塚 実際に穴が空いているかもしれませんよ。亡くなったという実感がどうしてもわきませんし、何をやるにしても、ミスターのことが頭に浮かんできてしまうんです。ミスターは、今も変わらず僕の心の中で生き続けています。

(後編:「長嶋茂雄は永久に憧れの人です」愛弟子・ 篠塚和典が受け継ぐミスターの意志と「僕らにできること」>>)

【プロフィール】

■篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日生まれ、東京都出身、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。

1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年を最後に現役を引退して以降は、巨人で1995年~2003年、2006年~2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

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