【平成の名力士列伝:栃乃和歌】無骨なまでの正攻法相撲で上位勢...の画像はこちら >>

連載・平成の名力士列伝47:栃乃和歌

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、現在の学生出身力士隆盛期の礎を平成前期に築いた栃乃和歌を紹介する。

連載・平成の名力士列伝リスト

【春日野親方の指導に試行錯誤で着実に成長】

 ガッシリした鋼のような体を真っすぐぶつけ、廻しをつかんでグイグイ前に出る――明治大学相撲部から春日野部屋に入門し、関脇まで進んだ栃乃和歌は、学生出身がまだ少数派だった平成初期、武骨に正攻法の四つ相撲で確かな存在感を示し、現在の学生相撲出身力士興隆の礎を築いた力士だった。

 昭和37(1962)年生まれで和歌山県海草郡下津町(現・海南市)出身。少年時代は野球に打ち込み、尾藤公監督率いる名門・箕島高校に入学した。しかし、当時の同校は、栃乃和歌の2年時に甲子園で春夏連覇するほどの強豪校でレギュラーへの道は険しかった。入学後、体重が増えたこともあって相撲部の梅本登監督に誘われて転部。めきめきと力をつけ、3年時には同校初のインターハイ団体優勝に貢献した。

 高校卒業後は明治大学に進んで1年生からレギュラーとなり、数々の団体戦優勝に貢献。個人戦でのタイトル獲得数は3にとどまったものの、4年時にはインカレで準優勝するなど確かな実力を示した。いくつもの相撲部屋から入門の誘いを受けるなか、春日野部屋に入門。学生時代からよく稽古に通っていたほか、祖父が当時の師匠の春日野親方の現役・横綱栃錦時代の大ファンで、その下の名にちなんで「清隆」と名づけられたという縁もあった。

 そんな春日野親方から入門直後に受けた指導が「突き押しでいけ」だった。

高校、大学と廻しを取る四つ相撲しか取ってこなかったから戸惑った。しかし、師匠の言葉には逆らえない。慣れない相撲で思うように勝ち星が上がらず、幕下で2場所、負け越しも経験した。四股やテッポウといった基礎も、新弟子と同様、しっかりと指導された。学生時代とはやり方が違い、やはり戸惑ったが、辛抱強く鍛え続けた。

 当時の大相撲は、学生出身力士への風当たりが強かった。栃乃和歌が幕下付け出しで初土俵を踏んだ昭和60(1985)年3月場所の番付を見ると、学生出身の幕内力士は大関・朝潮(近大)のほか、出羽の花(日大)、旭富士(近大中退)、舛田山(拓大)、服部(同大、のち藤ノ川)と5人しかいない。幕内力士42人の約半数が学生出身の現在と比べて、はるかに「少数派」だ。彼らは実績を考慮され、番付の途中から「付け出し」という特権を与えられて初土俵を踏む。一番下の序ノ口から、苦労を重ねて番付を這い上がってきたほかの力士たちには面白いはずがない。「学生出身力士には負けられない」と闘志をむき出しにしてかかってきた。

 一方、学生出身力士が入門した部屋の方でも、実績を引っ提げて入ってくる彼らはプロ野球の助っ人外国人のようなもので、鍛えるよりも即、結果を求める風潮もあった。

しかし、元栃錦の春日野親方は栃乃和歌を特別扱いせず、一人の新弟子として接したのだ。

【小錦戦初勝利で存在感を確立】

 そんな指導を受けた栃乃和歌は少しずつ力をつけ、番付を上げていった。昭和61(1986)年9月場所、新十両を機に、春日野部屋伝統の「栃」に故郷の和歌山県から「和歌」を取った「栃乃和歌」と改名。昭和62(1987)年1月場所で新入幕を果たすと、同年3月には10勝5敗で敢闘賞に輝き、幕内上位へと進出した。

 相撲ファンに衝撃を与えたのが、新小結の昭和62(1987)年7月場所2日目、新大関・小錦に挑んだ一番だ。

 小錦は239キロとケタ外れの巨体を武器にした圧倒的な押し相撲で土俵を席巻していた。一方の栃乃和歌は幕内4場所目の新鋭。190センチ、140キロのがっしりとした体つきとはいえ、小錦より約100キロも軽い。過去2度の対戦では一方的に敗れている。しかし、鋭く踏み込んで強烈な突き押しを受け止めてモロ差しになると、体を密着させてグイグイ前進し、そのまま寄り切った。入門以来の封印してきた四つ相撲での快勝だ。突き押しに徹し、基礎を鍛えてきた日々の稽古で、持ち味である四つ相撲の威力が、小錦の巨体も圧倒するほどまでに増していたのだ。

それは、「学生出身」という肩書など関係なく、魅力的な相撲を取るひとりの力士として、全国の相撲ファンが栃乃和歌を認識した瞬間でもあった。

 栃乃和歌はこの場所、5日目には前場所全勝優勝の大関・大乃国にも初黒星をつけるなど9勝して初の殊勲賞を獲得し、翌場所は新関脇に昇進。時代が平成に変わってからも幕内上位に定着し、しばしば横綱・大関を倒して大関候補に名乗りを上げた。

 平成4(1992)年3月場所は千秋楽まで首位タイを並走し、優勝まであと一歩に迫りもした。残念ながらケガもあって大関昇進はならず、やがて三役からも遠ざかったが、長く幕内を務めた。後輩たちが次々と入門して幕内に昇進し、一大勢力となった学生相撲出身力士の長老的な存在ともなった。

 平成11(1999)年7月場所、14年間の土俵生活に別れを告げて年寄竹縄を襲名。春日野部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたったあと、平成15(2003)年に元横綱・栃ノ海の先代の後を継いで春日野部屋を継承した。大関・栃ノ心などを育てる一方、平成28(2016)年には日本相撲協会の理事に就任し、広報部長、巡業部長、事業部長などの要職を務め、協会運営にも尽力している。

【Profile】栃乃和歌清隆(とちのわか・きよたか)/昭和37(1962)年5月22日生まれ、和歌山県海南市出身/本名:綛田清隆/所属:春日野部屋/しこ名履歴:綛田→栃乃和歌/初土俵:昭和60(1985)年3月場所/引退場所:平成11(1999)年7月場所/最高位:関脇

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