【イチローから伝授された背面キャッチ】
イチローが硬式野球部を指導する高校へ出向いた時、ふたりの"女子部員"に出会った。
ひとりは当時、旭川東高校の1年生で、今は3年生となった中山志輝(なかやま・しき)さん。男子選手のなかで、彼女は選手のひとりとして活動していた。
「女子の硬式野球部がある高校でプレーするんじゃなくて、中学の時のまま、男子と一緒に野球をやりたいと思ったんです」
そんな中山さんの希望を、旭川東の野球部はとくに議論することもなく受け入れたのだという。女子部員が在籍していたこともなく、ノウハウもない。それでも中山さんは今、男子のなかのたったひとりの女子部員として当たり前のようにプレーしている。
現在のルールでは、公式戦に女子選手が出場することはできない。女子が中学を卒業したあとも野球をやりたいとなれば、選択肢は限られている。女子硬式野球部のある高校が増えているとはいえ、2024年1月の時点で61校のみ。
しかもこの時には女子野球部がない高校は14県(秋田、富山、石川、三重、奈良、滋賀、和歌山、香川、徳島、鳥取、山口、佐賀、長崎、大分)にも及び、その地域の中学生が女子硬式野球部に入ろうとすれば、実家を離れて遠くの高校へ進むしかなかった。
まして将来を見据えて大学進学を考えるならば、学業優先で高校を選ぶのは当たり前で、進学を希望した高校に女子野球部があった、という確率は極めて少ないだろう。
だから高校でも野球を続けたい女子のなかには、公式戦に出られないことを承知のうえで男子だけの硬式野球部の門を叩くものが出てくる。練習試合なら出場できるし、実際、旭川東の中山さんは1年生の時、練習試合へのデビューを果たした。
3年生となった中山さんは今も毎朝、誰よりも早くグラウンドへ出て個人練習に励んでいるのだそうだ。そんな姿勢を男子部員が認めないわけがない。
「もし公式戦で女子選手が出られるなら中山がレギュラーだったのになって、そう言われるくらいの選手になりたいんです」
当時、ライトを守っていた中山さんは、指導にやってきたイチローから、歩き方やスクワットの形を伝授された。さらに背面キャッチはボールとの距離感を測れるようになるからと、練習メニューに加えるようアドバイスされた。中山さんにとっても濃い2日間になったはずだ。
中山さんは今、3年生として高校生活、最後の夏を迎えようとしている。

【イチローの母校でプレーする女子部員】
もうひとりはイチローの母校、愛工大名電の硬式野球部にいた"女子部員"だ。当時は1年生で、今年2年生になった口田美羽(くちだ・みう)さん。
彼女は軟式の学童野球チームでプレーしていた小学5年生の時、名古屋の区大会でサヨナラ満塁ホームランを打った。その感触が今でも手に残っているという口田さんは、今、男子のなかでもとりわけレベルの高い選手たちと一緒に練習をしている。
入部した頃に比べると彼女のスイングスピードは10キロも速くなったのだと聞いた。練習試合ではまだ打席に立てていないのだが、守備固めでは何度も試合に出ている。口田さんは、こんなふうに話していた。
「自分は外野手なのに肩が強くないので、ボールをどういう意識を持って投げたら遠くへ投げることができるのかをイチローさんに聞いてみたかったんです。でもイチローさんがいらっしゃった日は話しかけるきっかけをつくれなくて......個人的には何も聞けませんでした。
ただ、チームとしては『データがすべてじゃない』というイチローさんの言葉を受けて、データだけに頼らず、自分の感性も取り入れていくことが大事なんじゃないかなと気づきました。(倉野光生)監督さんも、データも生かしつつ、感性をかけ合わせてやっていくのが大事だとおっしゃっています」

さらに、壁当てをして強いボールが投げられる練習を続けている。そういう単調な練習に取り組む口田さんを、愛工大名電の倉野監督はこんなふうに見ていた。
「彼女の成長ぶりはすばらしいと思います。それもきちんと努力をして、その努力に見合う上達をしているんです。だからほかの部員に言うんですよ。『おまえたちな、甲子園、甲子園って言うとるけど、彼女は甲子園という目標がないのにあれだけ努力してるんだぞ。
彼女にはうまくなりたいという気持ちがあるし、自分がこれよりも先へ行くためにはこれができないとダメだということも全部わかっている。だからあんなに頑張れるんでしょう」
毎年、イチローが率いる神戸智辯と戦う高校女子選抜チームは、全国の女子硬式野球部から選手を選んでいる。ただ、男子の野球部で練習に励む女子にもセレクション等を通じてチャンスがあってもいいのではないか......そんな話を口田さんに振ったら、彼女はこう言って、ニコッと笑った。
「練習試合でホームランを2本打てば、もしかしたら選んでもらえるかもしれませんね」