6月27日、横浜。アイスショー『ドリーム・オン・アイス』初日公演後の囲み取材で、樋口新葉(24歳/ノエビア)は氷上に即席でつくった舞台に立っていた。
「今シーズンで引退しようと決めて臨んでいて。目標は、(2026年ミラノ・コルティナ)オリンピックへ行くことですけど、それ以外の試合も一つひとつが最後になると思うので、気を引き締めて臨みたいなと思っています」
樋口はさりげなく言ったが、それは今季限りでの引退発表だった。彼女は、どんな覚悟で新シーズンに挑むのか?
【坂本花織も尊敬する有数のスケーター】
樋口は、日本有数のフィギュアスケーターである。2022年北京五輪では団体の銀メダルに大きく貢献した。世界選手権には4度出場し、2018年には2位。全日本選手権は4度にわたって表彰台に立っている。
ハムストリングの爆発力を生かしたパワフルなスケーティングがトレードマークだが、エネルギッシュな曲を演じきれる技術こそが真価だ。
特筆すべき点は、2022−2023シーズンを右すねの疲労骨折で休養後、1年間のブランクを経て、2023−2024シーズンから復帰している点だろう。
「(樋口)新葉はノービスから一緒に戦ってきて、自分にとってなかなか追いつけない存在。北京でメダルを一緒に獲れたことで、やっと同じところで戦える自分に成長したんだなって感じました」
先日同じく今季限りでの引退を表明した坂本花織はそう言って、同世代の"ライバル"に最大の敬意を表している。
「(樋口は)一回ケガ休養で離脱したのに、世界トップの戦いをするところまで戻ってくるってすごいなと思っています。
【ラストダンスで表現する人生賛歌】
スケーターが、競技から離れて戻ってくるのは簡単ではない。まずスケートを戻すのはしんどく、本当にスケートが好きかを日々試される。イメージした演技ができないことにいら立ち、結果が伴わず、心ない言葉を浴びることもあるだろう。五輪の舞台に立ってメダルも獲得したような選手にとっては、なおさら過酷だ。
しかし、樋口はブランクに苦しみながらも、自分の滑りを取り戻した。昨季は全日本選手権で坂本、島田麻央に次ぐ3位で表彰台に立った。ショートプログラム4位から逆転し、歴戦の戦巧者ぶりを見せた。
樋口は自慢の爆発力を抑えることで、スケーティングを安定させていた。経験のたまものだろう。3回転ルッツ+3回転トーループの大技を成功。得点が1.1倍になる後半のジャンプも、3回転ルッツ+ダブルアクセル+2回転トーループ、3回転ループ+2回転トーループと流れが途切れず、スピン・ステップは力強くレベル4獲得だった。
再生した樋口は、スケーターとしての厚みのようなものを感じさせる。復活を遂げ、心身ともにたくましくなった。"ラストダンス"に向け、一つひとつの舞台が特別になるはずだ。
「ショートは『My Way』という曲で、自分のスケート人生を表現するようなプログラムになっています。一つひとつのエレメントを大事に、それ以外でもつなぎなど表現の幅広さをすべて出せるプログラムになっているので、表現を注目してほしいですね!」
樋口はそう言って、最後のショートへの思いを込める。
「振り付けに行った時、曲をどうするかでいくつか迷っていました。試してつくりながら、どうしてもしっくりこなくて。3日目くらいに振付師のジェフ(ジェフリー・バトル)が『僕が引退する時に使いたかった曲なんだよ』って提案してくれたのが『My Way』。それがすごくしっくりきて、踊りやすそうだなって。最後のシーズン、締めくくりにちょうどいいプログラムになるなと思いました」
過去の彼女の楽曲は、『ライオンキング』に代表されるようにパワフルな表現が多かった。今回は真っ白なドレスにシルバーのストーンが入った衣装で、人生讃歌をうたい上げる。悲喜こもごもの生きざまを示す、壮大なプログラムだ。
【すべてを出しきるシーズン】
「一つひとつの試合がすべて最後だと感じながら、次に進めるようにしたいですね。自分が今までやってきたことが間違ってはいなかったと思えるように。納得できるような演技を」
樋口はそう言って、ラストシーズンへ挑む。
「昨シーズンもやめようかなと思いながらのシーズンでしたが......(今年3月の)世界選手権に出場し自分で獲った枠をもう一回使いたい、今シーズンまでは頑張ろうって思いました。それに北京に行った時、もう一回オリンピックで滑りたいという思いもあって。メンタル的にも自分は弱いところがあるので、今シーズン限りって決めることで、すべてを出しきれるんじゃないかなって思いました」
樋口は凛と背筋を伸ばして言った。"今季限りでスケーター人生の幕を引く"と縛りをつけることで、最後を最大限に輝かせる。ミラノは、約束の舞台だ。