語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第17回】松尾雄治
(私立目黒高→明治大→新日鐵釜石)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。

だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 第17回は、ついに「日本ラグビー史No.1司令塔」を紹介したい。明治大を初の日本一に導き、新日鐵釜石(現・釜石シーウェイブス)でも日本選手権V7を含む8回の優勝に貢献した「ミスターラグビー」松尾雄治だ。

 引退後はスポーツキャスターとしても活躍し、タレントとしてのイメージが強いかもしれないが、現役時代は「天才肌」として日本ラグビー界で一番の輝きを放ったスターSOだった。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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日本ラグビー史上No.1の司令塔・松尾雄治 伝説の「13人ト...の画像はこちら >>
 胸元に「はまゆりの花」のエンブレムが描かれた深紅のジャージー。新日鐵釜石の「10番」を背負った姿は、誰よりも格好よかった。

 身長172cm、体重70kgと、体躯は決して大きくない。しかし、左右から蹴り出されるスクリューキック、そして類稀(たぐいまれ)なスペース感覚を武器に、相手の隙をつくラン、パスで一時代を築いた稀代のSOだった。

 松尾雄治である。

 彼の輝かしいラグビー人生を振り返るうえで、特に強く印象に残っているシーズンと言えば、監督を兼任して前人未踏の日本選手権V7を達成した1984年度だろう。

 全国社会人大会・準決勝の東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)戦は、終盤で追いつく大接戦。死闘を演じて引き分け抽選となった結果、かろうじて決勝の切符をつかんだ。

 決勝の相手は神戸製鋼(現・コベルコ神戸スティーラーズ)。釜石は前半からリードを奪うことに成功し、後半21分に日本ラグビー界で伝説となった「13人トライ」を披露する。

 自陣奥でのモールのあと、プレッシャーを受けた松尾がキックをせずにパスを選択すると、その後、100メートルあまりを12人でつないでトライを挙げたのだ。

【SOへの転向で才能が開花】

 社会人大会を制し、続く日本選手権は65,000人の超満員に膨れ上がった国立競技場。迎えた相手は、大学選手権3連覇を達成し、キャプテンCTB平尾誠二やLO大八木淳史らを筆頭に「打倒・釜石」に燃える同志社大だった。

 この大一番を「引退試合」と決めていた松尾は、左足にケガを負っていたものの、麻酔を打って強行出場した。その影響もあって釜石は2トライを先制されて、前半12-13とリードを許してしまう。しかし後半、松尾の好リードやアシストによって形勢は逆転し、釜石が31-17の逆転勝利で日本選手権V7を達成した。

「同志社大は強かった。(勝因は)FWで勝つことと、ゲームメーカーの平尾を動かせないようにしたこと。(7連覇できたのは)一人ひとりが一生懸命やったからかな」

 その後、敗れた平尾と大八木は悔しさを胸に神戸製鋼へと進み、10年後に同じくV7を達成することになる。この時はまさか、誰も想像していなかっただろう。

 1954年、松尾は東京都渋谷区に生まれた。

立教大ラグビー部でFLとしてプレーした父・雄氏の影響で、幼少から水泳、柔道、バスケットボールなどさまざまなスポーツを経験し、ラグビーも小学校5年から始めた。

 高校1年時に成城学園から私立目黒高(現・目黒学院)に転校し、高校3年時には花園で準優勝を成し遂げる。そして高校時代に明治大グラウンドで練習していた縁もあり、松尾はそのまま明治大に進学した。

 大学1年時には大学選手権の決勝で早稲田大と対戦。当時SHだった松尾の華麗なパスによってWTB渡辺貫一郎(3年)の決勝トライが決まり、明治大が初の大学日本一に輝いた。

 大学3年時には日本代表にSHで選出。しかしその直後、明治大を率いる名将・北島忠治監督にSOへのコンバートを言い渡される。予想外の転向指示に「ラグビーを辞めるか」悩んだこともあったが、気持ちを切り替えた松尾はその後、SOの才能を大きく開花させていく。

【腰痛が治ることはなかった】

 大学4年時は36戦無敗の早稲田大を倒して2度目の大学選手権優勝。さらに日本選手権も勢いに乗って三菱自動車工業京都を下し、悲願の初優勝に導いた。

 新日鐵釜石に入社後、1976年度の日本選手権でも優勝に貢献するも、前年の秋から調子が悪かった腰を治療すべく「選手生命をかけて」椎間板ヘルニアの手術を敢行。そして長いリハビリの末、1978年度から始まる日本選手権V7の歴史を築いていった。

 1974年に初選出された日本代表では、1984年まで「不動の司令塔」として24キャップを獲得。当時はラグビーワールドカップこそなかったものの、1979年のイングランド代表戦(19-21)や1983年のウェールズ代表戦(24-29)は松尾を代表するテストマッチとして知られている。キックとパスによるゲームコントロールはピカイチで、世界にその才能を十分に証明した。

 ただ、腰痛が完全に治ることはなかったようだ。

「そろそろ潮時だった。寂しい気持ちはあったが、悔いはない。最後の試合、(国立競技場の)大観衆の前でプレーできて幸せでした」

 釜石のV7達成とともに、31歳を目前にして惜しまれつつも引退した。

 引退後はスポーツキャスターとしてラグビーの普及活動に尽力し、2004年から2012年までは小・中学校を過ごした成城学園の成城大学ラグビー部監督も務めた。大学選手権優勝2回、日本選手権優勝8回。松尾雄治は記録にも記憶にも残る「日本ラグビー史上ナンバーワン」のSOだ。

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