微笑みの鬼軍曹~関根潤三伝
証言者:尾花高夫(前編)

 関根潤三監督の3年間、ヤクルトは常に最下位争いをするなど、暗黒時代に突入していた。それでも尾花高夫は、負けても負けてもマウンドに立ち続けた。

エースとして孤軍奮闘していた尾花はどんな思いでチームを見ていたのか。

勝てなくても投げ続けたヤクルト暗黒時代のエース・尾花高夫が振...の画像はこちら >>

【心身ともに充実していた】

── 関根潤三さんがヤクルトスワローズの監督に在任していたのは1987(昭和62)~1989(平成元)年の3年間のことでした。この間、尾花さんはプロ10年目から12年目、年齢で言えば30歳を迎え、心身ともに充実していた時期にあたります。

尾花 あの頃は、よく投げましたよね(苦笑)。とにかく、打てない、守れないチームで、いつも最下位争いをしていましたから。

── おっしゃるとおり、この3年間で尾花さんは合計91試合に登板、600イニング以上を投げています。

尾花 当時は「先発すれば完投する」というのが当たり前の時代だったし、自分でも「オレが投手陣のリーダーだ」と思っていたので、「勝つためにひたすら投げる」という思いは持っていましたね。自分はドラフト1位でプロ入りしたわけではなく(77年)ドラフト4位でのプロ入りだったから、投げさせてもらえる時にはとにかく投げる。そんな気持ちでマウンドに上がっていましたね。何しろ「3年連続最多敗戦」ですから(苦笑)。

── 土橋正幸監督時代の86年、そして関根監督時代の87年、88年と3年連続でセ・リーグ最多敗戦投手となっていますが、それだけ多くの試合を任されたという証でもありますね。

尾花 さっきも言ったように、ドラフト1位選手のように才能に恵まれていたわけではなく、僕の場合はコントロールとスタミナ。それだけが武器だった。

丁寧に投げないと抑えることができない。コントロールがいい時は勝てるけど、ちょっとでも投げ間違いをすると打たれる。そんなピッチングでしたから。

 武上(四郎)監督、土橋監督時代の82年から4年連続で2ケタ勝利を挙げて、少しずつ松岡(弘)さんの成績を上回り始めてから、周りの人たちも「ヤクルトは尾花が中心になった」と認めてもらえるようになった。関根さんが監督になったのは、そんな頃のことでした。

── 前任の土橋監督時代には、先発も中継ぎも任されていました。例えば86年シーズンは34試合に登板して、先発が27試合、リリーフが7試合でしたが、関根監督就任2年目となる88年には31試合登板して、リーグ最多の31先発となっています。

尾花 それなりに配慮してくれていたのかどうかはわからないけど、88年は伊東昭光がリリーフを任されていたので、先発に専念することができたのかもしれないですね。やっぱり、そうなるとラクですよ。中6日に合わせて調整をすればいいんだから。

【個性的な助っ人たち】

── 関根監督時代には、当時若手だった広沢克己(広澤克実)さん、池山隆寛さんが台頭し、少しずつチームカラーも明るくなって、得点力も向上していきました。

尾花 たしかに広沢、池山にホームランが出るようになって得点力は上がりましたね。関根さんの時代は外国人選手も一発を打てる選手が多かったから。

── 87年にはボブ・ホーナー、88年はダグ・デシンセイ、そして89年はラリー・パリッシュと、一発が期待できる大物助っ人が相次いで来日しましたね。

尾花 それまでと比べると得点力は上がったかもしれないけど、まだまだ確実性には乏しくて、荒削りの打線ではあったと思います。ホーナーは怠け者でほとんど練習をしなかった(笑)。だけど、彼とはよく飲みに行きましたよ。彼はバーボンコーラが大好きで、そればっかり飲んでいましたね。

 デシンセイは東京ドーム第1号ホームランを打って、守備でもファインプレーをしてくれて、僕が「東京ドーム最初の勝利投手」になることができました。パリッシュは足が悪かったので、守備範囲は狭かったけど、バッティングはすごかったし、何よりも人間的にいいヤツでした。

── 関根監督2年目となる1988年に開場した東京ドーム。第1号ホームランを放ったのがデシンセイ選手で、勝利投手となったのが尾花さんでした。この試合のご記憶はありますか?

尾花 もちろんありますよ。開幕戦は(季節外れの)大雪だったんです。家を出るときに「これは中止だな」と思ったんだけど、「いや、ドームだから試合はあるのか」と気づいて、女房に「電車は動いているのかな?」と言いながら、車ではなく電車で水道橋に行くことにしました。

普段、ジャイアンツはデーゲームをしないんですけど、この日はオープン記念ということで、巨人対ヤクルトがデーゲームで、ナイターで日本ハム対ロッテを行なったんです。

── やっぱり、すごく詳細に覚えているんですね。

尾花 試合内容も覚えていますよ。さっきも言ったように、デシンセイがドーム第1号を打って、サードのファウルフライをファインプレーしてくれてね。で、僕がクロマティに一発を食らってリードされていたんだけど、代打の平田(薫)さんが逆転打を放ってくれて、桑田(真澄)をノックアウトして、伊東昭光が試合を締めくくって、僕に勝利投手が転がり込んできた。そんな感じでしたね。

【チームがグッと明るくなった】

── さて、関根監督時代は先ほど名前の出た池山さん、広沢さんの「イケトラコンビ」に加えて、長嶋一茂さん、栗山英樹さん、笘篠賢治さんなど、どんどん若い人気選手が入団して、少しずつチームカラーも変化していく時期でした。この頃のチーム内の印象はいかがですか?

尾花 さっきも話に出たけど、チームが明るくなったのは確かでしたね。関根さんは、長嶋茂雄さんとの関係も深かったので、「一茂を一人前にしたい」という思いで積極的に起用していた印象があります。一茂の場合、打撃に関しては、当たれば飛距離がすごかったけど、確実性には期待できなかった(笑)。守備に関しては、「とりあえず普通のゴロはきちんと捕ってくれよ」という思いでした。

── チームの雰囲気が明るくなると、それが勝敗やプレー内容に影響することもあるのでしょうか?

尾花 まだまだ成長途中の選手たちが多かったから、すぐに勝敗に直結することはなかったけど、それでもチームの雰囲気が明るくなるのはいいことだとは思っていました。

荒木大輔がいて、一茂がいて、池山や広沢が活躍して、チームの人気もどんどん上がっていたし、若い女性のファンも増えていったし、それはやっぱりプレーにも好影響を及ぼすこともあったんじゃないですか? 僕はそんなに影響を受けたとは思わないけど(笑)。

── 入団時は大矢明彦さん、八重樫幸雄さんといった先輩キャッチャーとのバッテリーでしたが、関根監督時代には後輩の秦真司さんとのバッテリーが増えました。

尾花 秦はバッティングを買われてレギュラーになりました。関根さんも、守備に関してはある程度は目をつぶっていたんじゃないのかな。秦とのバッテリーでは、基本的にノーサインで、僕の判断で投げていました。のちに古田(敦也)が入団した時も、ノーサインで投げていました。

── 尾花さんはコントロールに定評があったから可能となったんでしょうね。

尾花 たしかに、逆球を投げることはほとんどなかったですからね。右打者のアウトコースならストレートとスライダー、カーブ。インコースならストレートとシュート。そんな感じで投げ分けていました。

── さて、次回はあらためてじっくりと関根監督についてお尋ねしたいのですが、尾花さんは広岡達朗、野村克也両監督時代も経験されているので、ぜひこの2人の名将と比較しながら、お話を聞かせてください。

尾花 広岡さん、野村さん、そして関根さん。それぞれの監督に、いろいろなことを教わりました。次回はそのあたりをお話したいと思います。

つづく


関根潤三(せきね・じゅんぞう)/1927年3月15日、東京都生まれ。旧制日大三中から法政大へ進み、1年からエースとして79試合に登板。東京六大学リーグ歴代5位の通算41勝を挙げた。50年に近鉄に入り、投手として通算65勝をマーク。その後は打者に転向して通算1137安打を放った。65年に巨人へ移籍し、この年限りで引退。広島、巨人のコーチを経て、82~84年に大洋(現DeNA)、87~89年にヤクルトの監督を務めた。監督通算は780試合で331勝408敗41分。退任後は野球解説者として活躍し、穏やかな語り口が親しまれた。

2003年度に野球殿堂入りした。20年4月、93歳でこの世を去った。

尾花高夫(おばな・たかお)/1957年8月7日、和歌山県生まれ。PL学園から新日鉄堺を経て、77年のドラフトでヤクルトから4位指名を受け入団。82年に12勝をマークすると、84年は自己最多の14勝を挙げた。後年は半月板損傷などケガに悩まされ、91年に現役を引退。引退後は投手コーチ、監督としてさまざまな球団を渡り歩き、多くの一流投手を育てた。23年2月から鹿島学園高(茨城)のコーチとして指導を行なっている。

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