語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第18回】小野澤宏時
(静岡聖光学院高→中央大→サントリー→キヤノン→福井県スポーツ協会)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。
連載18回目は「うなぎステップ」を武器にトライを量産し、サントリー(現・東京サントリーサンゴリアス)に数々のタイトルをもたらした「レジェンドWTB」小野澤宏時を紹介する。トップリーグ通算109トライは史上最多。81キャップは日本歴代3位。出場したワールドカップ3大会すべてでトライを決めた唯一のラガーマンだ。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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小野澤宏時の代名詞と言えば「うなぎステップ」。単なるスピードや瞬発力だけでなく、海外で「ラバーマン」と称されたようにゴムのような柔らかいステップで相手の動きの逆を取っていく。国内リーグやテストマッチで数々のトライを重ね、ワールドカップの大舞台でも勝負強かった。
2003年大会のスコットランド戦や2007年大会のウェールズ戦など、小野澤がワールドカップでトライを奪ったシーンはどれも印象深い。しかし、最も強烈に記憶から蘇ってくるのは、2011年大会のニュージーランド戦でのトライだ。
2011年9月16日。会場はニュージーランド北島・ハミルトンのワイカトスタジアム。
5日後のトンガ戦を考慮して、日本は主力を温存して臨んだ。それもあって、前半から6トライも奪われて折り返すこととなる。
しかし一方的な試合展開になっても、小野澤は集中力を切らさなかった。0-59で迎えた後半18分、「(点差がついて)雑なパスが来る」と思った小野澤は、相手のオフロードパスを見事インターセプト。そのまま40メートルを走りきってトライを奪った。当時BK最年長33歳の小野澤が好判断とスピードで「ラグビー王国」に一矢を報いた瞬間だった。
【ラグビーの師から教わったこと】
小野澤は当時、年齢による不安を多少なりとも感じていたという。実は2007年大会後にジョン・カーワン日本代表HC(ヘッドコーチ)から「課題は年齢とサイズだ」と言われていたからだ。小野澤も2011年までの4年間を振り返り、「しんどかった」と語っている。
小野澤は所属するサントリーの指揮官エディー・ジョーンズHC(当時)に相談した。すると、「試合に出るか出ないかは、選手が決めることじゃない。だから悩んでもしょうがない。
自転車でのトレーニングを新たに取り入れた小野澤は、ベテランと言われる年齢になっても進化を続けた。2007-08シーズンにはトップリーグMVPに輝き、2009-10シーズンと2010-11シーズンは連続してトライ王を獲得。衰えを見せない活躍が評価されて、自身3度目のワールドカップ出場をつかみ取った。
2011年大会のあと、日本代表の新しい指揮官にジョーンズHCが就任。小野澤は恩師の右腕として2シーズン、日本代表として活動を続けた。通算81キャップはBK史上最多。代表ラストマッチは、奇しくも初キャップを得たウェールズ戦(2013年6月)だった。
2003年、2007年、2011年と、ワールドカップ3大会すべてでトライを記録し、今も「レジェンドラガーマン」と称えられる小野澤だが、生まれはラグビーの盛んな地域ではない。静岡県金谷町(現・島田市)出身。父がラグビー経験者だった影響で、中学校から静岡にしては珍しくラグビー部のあった静岡聖光学院に進学する。そして中学校2年時に、コーチとして赴任してきた元日本代表FLの葛西祥文氏と出会う。
小野澤は葛西コーチから「倒れないこと」の大切さを教わったという。「ラグビーの師」の教えを胸に、練習でも独自のタイヤ引きやダッシュを繰り返したことで、高校3年時には高校日本代表に選ばれるまでに成長した。
【息子は慶應大2年の注目ランナー】
高校卒業後は中央大に進学し、2000年にサントリーへ。ルーキーながら持ち前のスピードとステップ技術は突出しており、東日本社会人リーグで14トライを獲得。2003年には当時として少数派の「プロ選手」としてサントリーと契約した。
日本代表では、初キャップとなった2001年6月のウェールズ戦での初トライを皮切りに、合計55トライを記録。WTB大畑大介(神戸製鋼)やFB栗原徹(サントリー)と「高速BKスリー」を組んでトライを量産し、桜のジャージーで不動の地位を固めた。
日本代表で13年間プレーした小野澤だが、初期と後期ではプレースタイルが少し変化したという。社会人になったばかりの頃は、ステップで少し相手をずらしながらスピードで抜き去っていた。しかし後期になると、ステップや相手の逆を取って抜くシーンが増えていった。
相手の抜き方や走り方に関して、その秘訣を小野澤に聞くと「1時間でも2時間でも話すことができますよ!(笑)」と笑って答えた。
単純にスピードやステップだけでなく、時には後ろに下がってみる懐(ふところ)の深さや、緩急を使って相手に捕まらない体の使い方は、世界の舞台での経験を通して得たものだった。
サントリーには2000年から2014年まで所属し、キャリアの晩年はコーチ就任という道もあった。しかし、小野澤は現役にこだわってキヤノン(現・横浜キヤノンイーグルス)に移籍する道を選び、2017年までトップリーグでプレーを続けた。その後は福井県スポーツ協会の一員となって、国体に出場して成年男子7人制でも優勝している。
現在は指導者に専念し、子どもたちにラグビーの楽しさを伝えている。なお、息子の小野澤謙真は静岡聖光学院で花園に出場し、現在は慶應義塾大2年でプレーする注目のランナーだ。
「今までの人生で、一番いいプレーヤーになること」
現役時代、小野澤の目標はいつも変わらなかった。
トップリーグ戦109トライ、日本代表81キャップ、ワールドカップ3大会連続トライ──。小野澤は高い目標を掲げ「倒れなかった」からこそ、数々の金字塔を築くことができた。