九州国際大付・楠城祐介監督インタビュー(前編)

 福岡県屈指の強豪校である九州国際大付は、小倉の10度に次ぐ夏9度の甲子園出場を誇る。平日は4時間授業を終えた後、北九州市八幡東区枝光の校舎からバスを30分ほど走らせ、同市若松区蜑住(あまずみ)にある専用グラウンドに移動。

午後2時30分ごろから練習がスタートする。

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【選手たちに余白を残す指導方針】

 ほかの強豪校のように室内練習場や、豪華なウエイト器具があるわけではない。ただ、就任2年目の楠城祐介監督(元楽天、ヤクルト)は、グラウンドが2面ある環境を有効に利用している。

「A班がシートノックを終えて、B班がシートノックをする時に、もう一つのグラウンドでA班がバッティングを始めるというような流れですね。どちらかというと同じ練習を繰り返して、いろいろと迷わせないようにしています。人工芝でスタジアムのような環境もすごいとは思いますが、自分はこの環境がすごく気に入っています。子どもたちの野球の時間や、ボールを扱うことに関しては、ほかの高校より長くできていると思っています」

 シートノック、打撃練習とルーティンワークをこなし、自主練へと移行したあと、18時過ぎにはグラウンド整備を終え、バスで学校内の寮へと戻っていく。土日の練習も、午前10時から14~15時ごろには終了。オフシーズンは日曜を休日に充てることもある。選手たちに「余白」を残してやるのが楠城流の指導方針だ。

「練習をダラダラ長くやってもいいわけではありません。前監督の時からそういうスタイルなので、指導者として休ませることが怖いとか、そういうのはありません」

「前監督」とは、実父・楠城徹さんのことである。徹さんは小倉時代の1969年春の選抜大会に出場すると、早稲田大を経て、1973年ドラフト2位で太平洋(現・西武)に入団。

捕手として活躍し、1980年限りで引退後は、西武で九州地区担当スカウトや一軍ヘッド兼バッテリーコーチ、スカウト部長などを歴任。2004年オフに30年在籍した西武を退団し、翌2005年から2012年まで楽天の編成部長やスカウト部長を務めた。

 そして2014年に学生野球資格を回復すると、若生正広監督のあとを受け、同年8月、九州国際大付の監督に就任。春夏5度の甲子園に導き、2023年8月に勇退した。

 そうしてバトンを譲り受けた楠城監督は、父から口酸っぱく言われていることがある。

「父には『自分の采配で勝とうと思うな』とずっと言われています。九国には能力のある選手がたくさんいるので、自分の采配に酔って邪魔をしないことを心がけています。父も自分もプロ出身ですけど、プロほど基礎を叩き込まれるというか、日々の積み重ねが全て結果に出ると思っているので、慌ててもしょうがないし、試合になったからといって、何か特別な作戦を練って勝とうとは思っていません」

【一浪の末に青山学院大へ】

 楠城監督は、父の現役引退から4年後の1984年、北九州市で生を受けた。2008年の楽天入団時、野村克也監督から「おまえも足が速いのか?」と問われたことがある。父は、プロ2年目の1975年に18盗塁をマークするなど、走れる捕手だった。もちろん、ダイヤモンドを颯爽と駆け回るユニホーム姿を見たことはない。少年時代に残る父のイメージは、スカウトとして球場などへ足を運ぶ際に、パリッと着こなしたスーツ姿だった。

「当時のスカウトは、ポロシャツやジャージー姿でもよかったようですが、スーツは(当時西武の管理部長だった)根本陸夫さんが始めたそうです。

スーツ姿には相手への敬意が込められています。父は身なりや、ユニホームの着こなし、ベンチ内での態度など、そういうことを大切にしています。試合でも立って指揮を執っていたので、今もコーチを含めてみんな立っていますね」

 楠城少年はそんな父の背中を見ながら、将来はプロ野球選手、そしてスカウトになりたいという夢を思い描いていった。

 父の母校でもある小倉に入学後は捕手として活躍。甲子園には届かなかったが、引退後は父と同じ東京六大学を目指し、中高6年間、家庭教師の下で勉強に励んだ。しかし結果は不合格。東都の大学の3月試験を受ける方向で話をすすめていたところ、父に「断ったから」と言い放たれた。

「最初は『えっ?』となって、どういうことかなと思ったら、『おまえが東京六大学でやりたいという気持ちはその程度なのか。将来の人生を考えたら大したことはない1年だから、浪人しなさい』と(笑)。正直なところ、いろんな知り合いの進路のお世話をしたりしていたのに、自分の息子はしてくれないのかと思い、母にはだいぶ八つ当たりしてしまいました」

 早慶戦に憧れていた父は、早大に進学するためには伝統校の小倉へ入学するのが近道と考え、中学浪人をしてまで夢を叶えていた。さらに楠城監督は早生まれ(1月)。1年の浪人は、長い人生においてきっとプラスになる。

息子の将来を見据え、いつもその成長を見守っていた。

 結局、浪人生活を選択し、当時、西武のスカウト部長を務めていた父の自宅があった埼玉・所沢市内から、高田馬場にある予備校に通いつめ猛勉強。再び東京六大学を目指すも、吉報は届かなった。しかし、東都の名門・青学大の合格を勝ち取った。さすがの父も、この時ばかりは反対しなかった。

【いつでも辞めたらいい】

 当時の青学大には精鋭が揃っていた。浪人したことで、高市俊(元ヤクルト)、円谷英俊(元巨人)、大崎雄太朗(元西武)、横川史学(元楽天、巨人)と同級生となった。この4人は大学後にプロへと進んだ。

「レベルは高かったですね。2年間はほぼ手伝いだけでした。青学の全体練習は2、3時間で終わるんですが、個人練習が本当にすごくて、こんなに練習するんだという集団でした。寮でゆっくりしているのが怖かったです」

 まずは1年間の浪人生活でなまった体を鍛え直すところからスタート。

2年秋には打力を生かすため、外野にも挑戦しながら、ブルペン捕手としてベンチ入りし、代打のチャンスをもらった。

 ただ、日本大の那須野巧(元横浜、ロッテ)ら、戦国東都の好投手をわずか1打席で打ち崩すのは至難の業だ。

 ある日の試合で三振した時のこと。神宮に視察で訪れていた父に聞いたことがある。
 
「恥ずかしくないですか?」

 いつものように敬語で問い、返答を待った。父とは中学時代から今までずっと、敬語で話す。

「おまえが恥ずかしいだけだろう。オレが野球をやっているわけじゃない」

 メンバーに定着せず、サポート続きの日々に嫌気がさして退部を考えていた時もそうだった。直接言う勇気がなく、母から伝えてもらうと、「おまえの野球人生なんだから、いつでも辞めたらいい」と突き放された。冷たいと思ったこともあったが、今では本当に感謝している。

「今の子どもたちを見ていて、うまくいく選手もいれば、いかない選手もいるじゃないですか。親の過度な期待は、絶対に子どもを潰してしまうと思うんです。

極端な話、試合に出る時は見に行き、出ない時は見に行かないという風になると、子どもが潰れてしまう原因になることはあると思いますね」

 2年秋のリーグ戦が終わり、何かを変えなければいけないともがき、必死で練習しているうちに、左手有鉤骨を骨折した。しかし、このケガが「野球人生の転機だった」となった。

つづく>>

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