【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.7
野口みずきさん(後編)
陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。オリンピックの大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。
そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は2004年アテネ五輪で日本人女子2大会連続となる金メダルを獲得し、さらに翌2005年には日本記録を更新した野口みずきさん。身長150㎝と小柄な体ながら、そのダイナミックなストライド走法で世界を席巻した。
全3回のインタビュー後編は、金メダルの次のターゲットとした日本記録更新への挑戦、ケガにより欠場した失意の北京五輪から引退まで、現役生活の後半を振り返ってもらった。
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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶
【アテネ五輪の1年後に日本記録を更新】
アテネ五輪で金メダルを獲得した野口みずきは、次なる目標を定めた。それは日本記録の更新だった。
「金の上にプラチナがないので、目標にしたのが記録でした。あの頃は、ポーラ・ラドクリフ選手(イギリス)の2時間15分25秒が世界最高だったんですけど、それはもう全然違うレベルで、今でいう2時間9分台に相当するとんでもないタイムだったんです(※)。そこに少しでも近づけるためにまずは日本記録を更新しようと思っていました」
(※昨年10月にケニアのルース・チェプンゲティッチが、女子で初めて2時間10分を切る2時間9分56秒で世界記録を更新。今回の野口さんのインタビュー後、利尿作用のある禁止薬物に陽性反応を示したとして暫定的な資格停止処分を科されている)
当時の日本記録は渋井陽子(三井住友海上)の2時間19分41秒(当時世界歴代4位)。アテネ五輪後すぐの2004年9月のベルリンマラソンで、それまでの高橋尚子の記録を5秒更新したものだった。
野口は翌年のベルリンで、見事に2時間19分21秒の日本記録を出して優勝した。この記録は、2024年1月、大阪国際女子マラソンで前田穂南(天満屋)が2時間18分59秒を出すまで19年間、破られることはなかった。
「日本記録を保持しているのは、気持ちがよかったです。もう1年、記録を維持していれば(20年で、昔の基準での)成人式達成だったんですけどね(笑)。でも、前田選手を指導していた(天満屋の)武冨(豊)監督は、私を指導してくれた藤田(信之)監督に似て、昔の泥臭い練習を今もやっている方で、ドキュメンタリーで見たことがあるんですが、前田選手も本当に競技にひたむきでした。その前田選手が、テレビ中継の解説をしている私の目の前で記録を破ってくれたので不思議な縁を感じましたし、それを見られた私は運がいいなって思いましたね」
狙いどおりに日本記録を生んだ野口は2007年11月、北京五輪の代表選考レースを兼ねた東京国際女子マラソンで渋井陽子やサリナ・コスゲイ(ケニア)ら強力なライバルを振り落として優勝(2時間21分37秒)。2大会連続となるオリンピック出場の内定を得た。
【2大会連続金メダルへのプレッシャー】
だが、ここから五輪までの間、野口は2大会連続の金メダルという期待とプレッシャーに苛(さいな)まれるようになる。
「ディフェンディングチャンピオンというのを意識しすぎてしまっていて......。表向きには全然気にせず、今までどおりの私という感じで強気な姿勢でいたんですけど、本当の私は密着のカメラから顔を背けたりしてすごく神経質になり、これもあれもやらなきゃいけない、どうしようっていう不安でいっぱいでした」
周囲の期待に応えたいという責任感から、もっと練習をやらないと金メダルは取れないと思い、自分を追い込んでいった。そんな北京五輪の直前、スイスのサンモリッツでの合宿で総仕上げ的な練習をしている時だった。朝、左太ももに違和感を覚えた。だが、「今日、山場を越えないといけない」という意識になっていたので、監督やコーチには言わず、そのまま練習に出た。
1周5.3kmの周回コースで、廣瀬永和コーチが自転車で後ろについてくれた。走っていると痛みのある部分が固くなり、悪化しているのを感じたが、そのままペースを上げた瞬間、猛烈な痛みが左もも裏に生じ、足を止めた。
「しばらくして廣瀬コーチが戻ってきた時は、無表情で黒いサングラスをかけ、『ターミネーター』の音楽が流れているような雰囲気でした。オリンピックとか世界陸上前の合宿って、監督やコーチは朝起きて選手がここが痛いとか、ここが気になるというのが本当に怖いと言っていたのですが、私がそうなってしまって......。ここまで来て、こんなことになり、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」
数日間は歩くことしかできず、それでも北京五輪に出たいので、痛みを我慢してジョグをした。その結果、ケガは悪化し、帰国して病院に行った。北京五輪は難しいという診断が下され、本番の5日前、野口は北京五輪欠場を決めた。
「すごく悩みました。応援してくれた人たちの顔が頭に浮かんだり、補欠の選手たちに申し訳ないと思い、やっぱり私はオリンピックに出ないといけないんじゃないかって思いました。欠場を公表してからは、誹謗中傷の声が届きましたし、寮の周りにもマスコミが来て、見張られているような感じでした。ただ、いろいろ批判はされましたけど、応援してくれる人の数も多かったので、それが私には救いになりました」
北京五輪は、野口が欠場し、土佐礼子(三井住友海上)も途中棄権。高橋尚子から続いた日本の連続金メダル獲得は2大会で途絶えた。
「北京五輪のマラソンは、普通に練習ができていたら勝っていたんじゃないかなとか、そんなことをぼんやり思いながらテレビで見ていました。
【高橋尚子に初めて伝えた「憧れていました」】
野口は気持ちの整理こそつけたが、それから1年半以上もケガが治らず、次へと進むことができなかった。陸上をやめようと思ったこともあり、廣瀬コーチと去就について言い合うこともあった。
「最終的にやめなかったのは、『おまえがやめるなら俺もコーチをやめる。おまえの最後を見届けるまで、俺はやめない』と言ってくれた廣瀬コーチをはじめ近くにいてくれる人が私を支えてくれているというのを感じたのと、応援してくれるファンの皆さんのメッセージが途切れることなく届いたからです。すごくありがたかったですし、そういう声がリハビリをして、再びマラソンの世界へ戻ろうという私のモチベーションになっていました」
応援の声や藤田監督、廣瀬コーチの支えにより、野口は2012年3月、ロンドン五輪の代表選考レースになった名古屋ウィメンズマラソンに出場。2007年の東京国際女子マラソン以来、4年4カ月のぶりのレースで6位入賞したが、オリンピック出場はかなわなかった。翌年の名古屋にも出場した野口は3位入賞し、同年8月の世界陸上モスクワ大会に出場した。しかし、本来の走りはできず、33kmで途中棄権になった。
「名古屋で復帰したのですが、脚が戻ってこなかったですね。右脚は五輪選手、左脚は普通の人の脚って言われたことがあったんですが、それだけケガの影響で筋力の差が出ていたんです。そのアンバランスのせいか、右脚に"抜け抜け病"が出てしまったんです」
抜け抜け病とは、正式な医学用語ではないが、長距離選手によく起こる症状で、脚に思うように力が入らなくなり、例えば真っすぐ前に脚を出したいのにうまくいかなくなったりする。
野口も練習をしていると、たびたび膝が抜けるような感覚に襲われて練習をこなすことができなくなった。練習ができないと戦えない。
レース前日の朝、神戸にいた野口はいつものように朝練習に出かけようとした。すると、廣瀬コーチと山口秀美マネージャーが「ついていっていい?」と車で野口の後ろをついてきた。信号で止まると、車窓越しにふたりの表情が見えた。
「ふたりとも神妙な表情をしていて、これが最後の朝練になるので目に焼き付けておこうみたいな感じだったんです。その後、神戸から名古屋に移動してレース当日、監督やコーチにアドバイスをもらうんですけど、廣瀬さんが『俺、もう無理や』と泣いているんですよ。山口マネージャーが『廣瀬さん、ここは泣くところじゃないですよ』って落ち着かせてくれて。最後に『おまえの走りをしてこい』と声を振り絞って言って送り出してくれたんです」
廣瀬コーチ、山口マネージャーの気持ちを受け止め、野口はスタートラインに立った。
「いよいよ最後。でも、あきらめない」という気持ちで号砲を聞いた。序盤の5km過ぎで先頭集団から脱落するも、沿道からの大きな声援に応えて走り続けた。結果は23位に終わったが、ゴールでは廣瀬コーチが待っていてくれた。
「かっこいい終わり方ではなかったですけど、(高校を卒業して実業団に)入社時、脚が壊れるまで走りますと言ったことを貫いたマラソン人生でしたし、有言実行で終われてよかったと思いましたね」
レース後、テレビ中継の解説をしていた高橋尚子が、舞台裏で「みずきちゃん、よくがんばったね」と声をかけ、やさしくハグをしてくれた。
「その時、高橋さんに初めて『憧れていました』と伝えたんです。現役時代に同じ競技者として憧れていることを伝えてしまうと、その人を超えられない。憧れという言葉を言ってはいけないと思っていたんです。野球のWBCで大谷翔平選手が『憧れるのはやめましょう』と言いましたが、私の方が少し早くそう思っていました(笑)」
翌月、野口は現役引退を発表した。
【前田選手が日本記録を更新して、いい流れになるかな】
現在は、岩谷産業陸上競技部のアドバイザーを務めながら、市民マラソンのゲストランナーやテレビ中継の解説などで活躍している。現役時代とは異なり、今は景色を味わい、市民ランナーの背中を押しながら、走ることを楽しんでいる。解説は国内の重要なレースを担当することが多いが、世界のトップで戦ってきただけに、日本選手の現状には少し物足りなさを感じている。
「前田さんが日本記録を更新して、いい流れになるかなと思っていますが、現実は世界とは大きな差があって、そこを完璧に埋めるのは難しいですね。でも、近づくことはできると思うので、日本の選手に頑張ってほしいです。ただ、今の選手の皆がそうだと言うつもりはないですが、チームや個人の練習などいろんな情報を得て、(他の選手の環境を)うらやましいとか、望むばかりになっているのかなと思う部分もあります。
3年前に、書籍(『野口みずきの練習日誌:金メダリストのマラソントレーニング』)を出した際、多くの指導者の方に購入していただいたのですが、これをやるのは難しい、故障してしまうという声を聞きました。でも、私はできないことはないと思うんです。選手には、命を燃やしてマラソンに打ち込んでほしいなと思います」
現役選手への檄は、そうして世界と戦ってきた金メダリストからの福音である。
(終わり。文中敬称略)
野口みずき(のぐち・みずき)/1978年生まれ、三重県出身。宇治山田商業高校から1997年にワコールに入社。その後はグローバリー、シスメックスに所属。2002年に初マラソンとなる名古屋国際女子マラソンで優勝、翌年の大阪国際女子マラソンも制し、2003年世界陸上パリ大会で銀メダルを獲得。そして2004年アテネ五輪では、前大会の高橋尚子さんに続く日本人女子2大会連続の金メダルに輝く。2005年ベルリンマラソンでは2時間19分12秒の日本新記録で優勝。2008年北京五輪もマラソン代表に選出されるが、大会直前のケガで出場を辞退。その後は故障との戦いに苦しむも、2013年世界陸上モスクワ大会では代表の座に返り咲いた。2016年に現役を引退し、現在はメディアやイベントへの出演ほか、岩谷産業陸上競技部のアドバイザーなどを務める。