世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第23回】ジュゼッペ・シニョーリ(イタリア)

 サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。

世界を魅了した古今東西のフットボール・ヒーローたちを、『ワールドサッカーダイジェスト』初代編集長の粕谷秀樹氏が紹介する。

 第23回は、1990年代のセリエA全盛期に3度の得点王に輝いたジュゼッペ・シニョーリを紹介する。左足1本でピッチに魔法をかける「レフティモンスター」は、ヒーローの要素をすべて持ち合わせていた。

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ジュゼッペ・シニョーリは右足を使わないファンタジスタ セリエ...の画像はこちら >>
 ファンタジスタとは、夢のようなプレーで人々を魅了する選手を指す。したがって、ポジションは限定されていない。GKでもストッパーでも構わない。筆者のファンタジスタはジョージ・ベスト一択。彼のドリブルはいつだってセクシーだ。

 1990年代のカルチョ・イタリアーノは、基本的に10番タイプをファンタジスタと呼んでいた。ロベルト・バッジョはその典型で、超絶技巧と憂いを含んだ表情は世界中を虜にした。

 そしてジュゼッペ・シニョーリも、まごうことなくファンタジスタだった。

 彼の左足は強烈、正確無比、さらにアーティスティック。

セリエAが世界最高峰と謳われた1990年代に3回も得点王を獲得している。守備に美学を求めていた当時のカルチョ・イタリアーノにおける偉業だ。マルコ・ファン・バステン(オランダ/ミラン)やガブリエル・バティストゥータ(アルゼンチン/フィオレンティーナ、ローマ、インテル)でさえも届かなかった事実が大記録の証(あかし)といって差し支えない。

 多くのレフティがそうであるように、シニョーリも左足に特化していた。基本的に右足は使わない。

 PKはワンステップで、GKとの駆け引きはあまり好まなかった。精度と的確なミートで高い成功率を誇った。FKは距離によって、スピード、コントロールを使い分けていた。1993-94シーズン第31節のアタランタ戦ではFKだけでハットトリックを達成している。

 また、テクニカル、かつパワフルなミドルシュートにも定評があり、身長170cmでも大柄なDFに挑みかかる強気なドリブルもカッコよかった。セリエAでは通算188ゴール。歴代10位タイに名を残す偉大なアタッカーである。

「選手が楽しまなければ、観客も笑顔になれない。守備的なスタイルは退屈だ」

 このようにカルチョ・イタリアーノを全否定したズデネク・ゼーマン監督のもと、シニョーリはフォッジャで脚光を浴びた。1991-92シーズンは11ゴール。この活躍が認められ、翌シーズンはラツィオに移籍した。

 勢いは止まらない。「空の要塞」と言われたドイツ人FWカール=ハインツ・リードレとのコンビで猛威をふるい、26ゴールを挙げて得点王に輝いた。1993-94シーズンは負傷で序盤10試合を棒に振ったものの、24試合・23得点という驚異的なペースで2年連続の得点王となる。

【ボローニャ移籍で鮮やかに復活】

 リーグ2位に終わった1994-95シーズン終了後、パルマから打診があった。

「是が非でもシニョーリがほしい」

 悲願のスクデットに向けて、ネヴィオ・スカラ監督の率いるパルマは「レフティモンスター」に白羽の矢を立てた。意外にも交渉は順調に進み、シニョーリの移籍が決まる。

 しかし、ラツィオのサポーターが黙っているはずはなかった。クラブ間の決定に異議を唱えた約4000人がクラブハウスに詰めかけ、「シニョーリを手放すな」と働きかける。プレッシャーに屈したラツィオ上層部は考えを一転させ、破談で決着した。

 カルチョ・イタリアーノらしいドタバタだとしても、サポーターは愛情を示した。シニョーリもさぞかし感動したに違いない。結果、1994-95シーズンを迎えたシニョーリは3度目の得点王を獲得。彼が吠える横顔を表紙にした『ワールドサッカーダイジェスト』も売れ行きは上々だったのだが......。

 ラツィオでの幸福は長く続かなかった。

 1997-98シーズンにズベン・ゴラン・エリクソンが監督に就任すると、風向きが変わる。戦略・戦術に不満を漏らし、守備意識も高くなかったシニョーリは、徐々に軽んじられていく。左足は錆びていないが、チームよりも個人を重視したようなパフォーマンスをエリクソンは認めなかった。

 結果的にラツィオは、シニョーリをシーズン途中にサンプドリアへ。放り出された稀代のストライカーは新天地でも歯車が合わず、17試合・3ゴールという成績に終わった。

 なお、ラツィオは1997-98シーズンにコッパ・イタリアを制すると、アレッサンドロ・ネスタ、シニシャ・ミハイロヴィッチ(ユーゴスラビア)、ディエゴ・シメオネ(アルゼンチン)、パベル・ネドベド(チェコ)などを擁した1999-2000シーズンはスクデットに輝いている。シニョーリにとって、どうにもこうにも巡り合わせがよろしくない。

 1998-99シーズン、30歳になったシニョーリはボローニャに新天地を求めた。前シーズンのプレーが芳しくなかったため、「年齢的にも多くは望めない」「すでに終わっている」と下馬評は低かった。

 しかし、レフティモンスターは鮮やかに復活する。ボローニャが優勝を宿命づけられたクラブではなく、カルロ・マッツォーネ監督やフランチェスコ・グイドリン監督が選手の個性を重んじたため、シニョーリは自由を謳歌した。3シーズン連続15ゴール。圧巻の得点能力を見せつけた。

【イタリア代表ではわずか7ゴール】

 ただ残念ながら、イタリア代表ではほとんど輝けなかった。ロベルト・バッジョやジャンフランコ・ゾラと同世代だったこと、1990年代のイタリア代表を率いたアリゴ・サッキ監督がファンタジスタを好まなかったことが、シニョーリの行く手を阻んだ。

 1994年アメリカワールドカップでは準々決勝のスペイン戦でアシストを記録しながら、「サイドではプレーしたくない」とサッキの起用法を拒否。シニョーリは構想外になった。セリエAで188ゴールを決めた名手が、イタリア代表では28試合でわずか7ゴールに終わっている。

 ミランの監督を務めていた当時から、サッキは個よりも組織を重視していた。

あのファン・バステンですらお気に召さなかった。一瞬の閃(ひらめ)きで試合の流れを一変させるタイプではなく、組織に殉ずるハードワーカーに重きを置いていた。「勝利のために芸術性が重要だとは思えない」とも語っていた。いわゆる現実主義者だ。

 アスリート色が濃くなった近代フットボールではなおさらだ。10番タイプは絶滅危惧種とさえ言われている。選手生活が危ぶまれるほどの過密日程となった近年では、簡単に壊れない頑健な肉体が必要であり、芸術性は二の次ということか。

 だが、ファンタジスタ復興を期待する声は少なくない。ミシェル・プラティニやディエゴ・マラドーナの流れを汲むバッジョやゾラのプレーはいつまでも美しく、そしてシニョーリの左足は魅力満載だった。彼らのようなタイプを生かす術(すべ)はどこかにあるはずだ。

 現役引退後、シニョーリは、イタリア下部リーグの八百長に関与した疑いをかけられたものの、2021年4月に疑惑が晴れて現在は静かな毎日を過ごしている。パワーとスピード、タフネスを全面に押し出す近代フットボールを、炎天下に公式戦を強いる現状を、シニョーリはどのように思っているのだろうか。

 エリクソンやサッキにも意見した男だ。素直、かつ辛辣(しんらつ)な感想を聞いてみたい。

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