短期集中連載・第4回

中谷潤人×ティム・ウィザスプーン ㏌ フィラデルフィア

(第3回:中谷潤人がアメリカのマイナス面にショック 元ヘビー級王者の境遇に痛感する「ボクシングに打ち込める場所」があることの幸せ>>)

 6月半ば、WBC/IBFバンタム級チャンピオンの中谷潤人は、束の間の休暇を利用してアメリカ・フィラデルフィアを訪れた。大ヒット映画『ロッキー』の舞台となった地で、WBA/WBCの元世界ヘビー級王者ティム・ウィザスプーンと出会った中谷は、何を感じたのか。

【モハメド・アリのライバル、ジョー・フレージャーの銅像の前へ】

「これがフレージャーですか。いつまでも、高く評価されるべきチャンピオンですよね」

 中谷潤人はそう呟くと、自身のスマートフォンでフレージャー像を撮影した。

中谷潤人が元世界ヘビー級王者と訪れたモハメド・アリのライバル...の画像はこちら >>

 フィラデルフィアを訪れたWBC/IBFバンタム級チャンピオンが、滞在3日目の朝に向かった先は、元世界ヘビー級チャンピオン、ジョー・フレージャーの銅像が立つ場所だった。MLBフィリーズの球場バックスタンドの斜向かい、NFLイーグルスのスタジアムとNBAセブンティシクサーズ、及びNHLフライヤーズの共同アリーナも周辺にそびえている。

 ロッキー像に比べると、足を運ぶ人は少ない。米国のスポーツジャーナリズムで最も権威のある『スポーツ・イラストレイティッド』誌は2015年9月11日に、フレージャーついてこんな内容の記事を掲載している。

「世界ヘビー級王座に就いてから40年以上、また逝去から4年を経て、フィラデルフィアはついに待ち望まれていたジョー・フレージャー像を建て、当地に生きた彼の栄誉を讃えることになった。

 フィラデルフィア美術館がセルロイド製のロッキー像を展示する一方で、本物のチャンピオンを見落としているのは奇妙だった。長年、この問題は放置されたままであった。モハメド・アリとライバル関係にあり、1970年代に3度の激戦を繰り広げたジョー・フレージャー像が、公の場では見られなかった。いったい、どういうことなのだろう? と感じてきた。しかし、まもなく修正される。

 2011年11月に肝臓ガンのため67歳で亡くなった伝説のボクサー、"スモーキン"ジョー・フレージャーを追悼する銅像の除幕式が土曜日(原稿が出た翌日の2015年9月12日)に催される。

フィラデルフィアの彫刻家スティーブン・レインが息を呑むような作品を作った。高さ11フィート(約3.35メートル)、重さ1800パウンド(約816キロ)の像は、キャリア絶頂期のフレージャーの姿をブロンズで表現している。1971年3月の"世紀の一戦"の第15ラウンドで、フレージャーがアリを左フックでダウンを奪った、まさにその瞬間だ」

【ロッキーのモデルになったトレーニングで世界の頂点へ】

中谷潤人が元世界ヘビー級王者と訪れたモハメド・アリのライバル「ジョー・フレージャー」像を前に「僕も、そんなレベルのチャンピオンになりたい」
フィラデルフィア美術館にあるロッキー像

 フレージャーは1944年1月12日、アメリカ合衆国サウスキャロライナ州ビューフォートで生を享(う)けた。13人きょうだいの下から2番目。南北戦争後に解放された多くの黒人たちと同様、フレージャー家も小作人として生きた。農園の脇に建てられた4部屋の小屋で、15人の家族は肌を寄せ合って暮らした。父親はフレージャーが生まれる1年前、酔っぱらいに左腕を撃たれ、右手一本で農作業を続けていた。12子は、その姿を目にしながら育った。

「苦しいだけの日々だった。やり場のない怒りがあった。姉たちは学校で教養を身につけたいと話していたが、俺は物心がついた時から、父と一緒に働いた」

 フレージャーは世界チャンプとなったあと、そう振り返っている。

 手製のサンドバッグを農園の木に吊るし、時間の許す限り、それに向かってパンチを放った。15歳になったフレージャーは収入を見込めない故郷を離れ、都会に出る。

ボクシングジムに通えて、労働にもありつける場所として選んだのがフィラデルフィアだった。毎朝5時に起床し、ロードワークに出る。その後、食肉処理工場で生活費を稼ぎ、夕方からジムで汗を流した。

「牛の体から流れる血を溝に送り、作業場をきれいに保つのが主な仕事だった。勤務時間よりも早く職場に行って、吊るされている牛肉をサンドバックのように殴ったもんだよ。シルベスター・スタローンが『ロッキー』で活用したシーンは俺がモデルさ。スタローンは、アイディア料を払ってくれなかったけれどな」

 1964年の東京五輪で金メダルを獲得後、プロに転向する。この時の世界ヘビー級王者は、4年前のローマ五輪の金メダリスト、モハメド・アリだった。やがてアリはベトナム戦争への徴兵を拒否したことから、タイトルを剥奪されブランク期間を作る。

 その間に最重量級の頂点を極めたのがフレージャーである。彼を筆頭に、フィラデルフィアは多くの世界チャンピオンを輩出してきた。

 中谷は、フレージャー像を見詰めながら言った。

「フィラデルフィアは、ボクシング・タウンですね。僕を知ってくれている人がけっこういましたし、ロスよりもボクシング熱が高い気がします」

 フレージャーのブロンズ像は全身で朝日を浴び、黒光りしていた。身長182センチの彼は、金メダルを手にフィラデルフィアに凱旋したつもりだったが、「ヘビー級としては小さ過ぎる」と、スポンサードを名乗り出る人がおらず、ローカルファイトで白星を重ねる。幼い頃と同様、現状を打破したいという憤りが厳しいトレーニングに向かわせた。

「銅像になるほどのチャンピオンですから、歴史に名を刻んだわけですよね。アリと3度闘って1勝2敗......。いろんな人に感動を与えたからこそ、功績が讃えられているんですね。僕も、そんなレベルのチャンピオンになりたいです」

中谷潤人が元世界ヘビー級王者と訪れたモハメド・アリのライバル「ジョー・フレージャー」像を前に「僕も、そんなレベルのチャンピオンになりたい」
1971年3月、アリ(右)からダウンを奪って勝利したフレージャー photo by AP/アフロ

 中谷の傍に立っていたティムも話した。

「若い頃、彼のジムをしょっちゅう使わせてもらった。おおらかな人だったよ。お世話になったな。ヘッドスリップを繰り返しながら、とにかく前へ、前へと進み、相手の懐に入って強烈な左フックをぶち込むボクシングだった。

 あのスリップはマネしたし、パンチをもらわない闘いをするのに実に役立った。アリのライバルとして、ボクシング界に君臨した人さ。第1戦での勝利は劇的だったよな。最終ラウンドにダウンを奪ったのも左フックさ」

 ティムは微笑みながら、こうつけ足した。

「でも、フレージャーが生まれたのはサウスキャロライナ州。俺は生まれも育ちもフィラデルフィアだ。ティム・ウィザスプーンの銅像ができたっていいんじゃないか?」

 ティムは豪快に笑うと中谷を促し、フレージャーの銅像前での記念撮影を依頼した。

【「僕も銅像が作られるくらいの存在に」】

『スポーツ・イラストレイティッド』が取り上げたように、"虚構のホワイトヘビー"であるロッキー・バルボアに比べ、真のチャンプ、フレージャー像はそれほど知られていない。ハリウッドでボクシングを題材にした映画が作られる際、黒人が主人公になることは少ない。『ロッキー』だけではなく、『チャンプ』(1979年)、『レイジング・ブル』(1980年)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)、『シンデレラマン』(2005年)、『ザ・ファイター』(2010年)なども、白人がメインキャラクターとして描かれている。実在の人物をモチーフとした作品であっても、なかなかマイノリティーにスポットライトは当たらない。

 統計サイト『Statista』の2024年7月5日のデータによれば、アメリカ合衆国の人口のうち白人は61.27パーセント、ヒスパニックが17.79パーセント、黒人は13.31パーセントとなっている。

客の比率も自然と"ホワイト"が大きくなるため、彼らが満足するストーリーが創られるのだ。

 その点について、中谷は述べた。

「真実を目にすることが大事ですよね。ボクシングに関しても、本物志向のファンが増えるといいなと思います。どんな入り方でもいいから、それを第一歩として、より深く物事を感じてほしいですね。

 個人的にはリアリティーを追求して核心に触れていただけたらという思いがありますが、映画鑑賞に行ったのなら、やはり作品を楽しむことが肝心です。そのうえでさらに興味を持って、実際の様子を知ってもらえたらうれしいです」

 フレージャーは生前、次世代の実力派ボクサーを励ましている。強すぎてチャンピオンから敬遠され、なかなか日の目を見なかったマービン・ハグラーにこんな言葉を送ったのだ。

「お前がチャンスに恵まれないのは黒人であること、サウスポーであること、そして、素晴らしいからだ」

中谷潤人が元世界ヘビー級王者と訪れたモハメド・アリのライバル「ジョー・フレージャー」像を前に「僕も、そんなレベルのチャンピオンになりたい」
元ミドル級統一王者のマービン・ハグラー

 のちに統一ミドル級チャンピオンとなり、12度の防衛に成功して伝説の男と謳われる後輩に、肌の色を含んだマイナス面を伝えていたのだ。無論それは、自身の体験が源になっている。
「そういう苦い思いを乗り越えた強さがあったんですね。僕も銅像が作られるくらいの存在になれるよう、頑張らなくてはいけません」

 中谷は自身に語りかけるように、言葉を発した。

 フレージャー像の制作者であるレインは、動きを表現するよう努めた。除幕式で、その思いを述べている。

「(彫刻家の)オーギュスト・ロダンの言葉に、動きを表現するには3つの段階が必要、というものがあります。それは、『あなたがどこにいたか』『今どこにいるか』、そして『どこへ向かっているか』です。フレージャーの足(過去)、胴体と手(現在)、そして最後に首と頭(未来)の配置によって、動きの流れを作り出すことを意識しました」

中谷潤人が元世界ヘビー級王者と訪れたモハメド・アリのライバル「ジョー・フレージャー」像を前に「僕も、そんなレベルのチャンピオンになりたい」
彫刻家スティーブン・レインが「動き」にこだわったフレージャー像

 フレージャー像を、もう一度凝視する。確かに、1971年3月8日にマディソン・スクエア・ガーデンで行なわれたアリとの初戦で得意の左フックをヒットし、ダウンを奪った直後の姿だ。同じポーズの写真が、当時の『スポーツ・イラストレイティッド』の表紙を飾っている。

 この一発の効果は大で、フレージャーはアリを判定で下したのだ。

 中谷はフィラデルフィアの強い日差しを受けながら、言った。

「やはり、作り手の思いが込められた芸術ですね。僕も自分のボクシングを磨き、見る人の心を動かしたいです」

(第5回につづく)

編集部おすすめ