語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第21回】今村雄太
(四日市農芸高→早稲田大→神戸製鋼→宗像サニックスブルース)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。

だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載21回目は、日本代表キャップ39を誇る「規格外のBK」今村雄太を紹介したい。高校からラグビーを始めたものの、突出した才能で桜のジャージーまで上り詰めた。早稲田大や日本代表ではアウトサイドCTB、神戸製鋼では主にWTBとして活躍した豪快なランナーだった。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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ラグビー日本代表「怪物」今村雄太の現在 ベンチプレス100k...の画像はこちら >>
 今村雄太の魅力はスピードだけでない──。身長178cm、体重93kg。まるでFWのようなパワーで他を圧倒するWTBだった。

 早稲田大時代には「最も海外でプレーを見てみたい選手」と評された。馬力あるランニングから「怪物」「鬼村」の異名を持ち、ニュージーランド代表の伝説的WTBジョナ・ロムーにちなんで「イマムー」とも呼ばれた。

 怪物が生まれた地は、三重県四日市市。今村は中学時代、まったく鍛えることなくベンチプレスで100kgを挙げたり、ボールを投げれば130km台を叩き出していたという。まさに「ナチュラルボーン・アスリート」だった。

 中学時代は野球部に所属。ポジションはキャッチャー。今村の投げるボールをキャッチできる選手がいなかったので、自ら志願して捕手をやっていたという逸話もある。

 高校は「家から近かったから」という理由で四日市農芸高校に進学。最初は「まったくラグビーをやるつもりはなかった」のだが、ラグビー部の監督から熱心な勧誘があったのと、タッチフットをやった時に経験したトライの爽快感が忘れられず、楕円球の門を叩いた。

【早稲田大で最強BK陣を形成】

 高校からラグビーを始めたにもかかわらず、今村は「花園」こと全国高校ラグビー大会に高校1年から3年連続で出場を果たす。高校3年時にはシード校の仙台育英(宮城)を下し、3回戦にも進出した。

「今までこんな子、見たことないですね。絶対に将来のジャパンですよ」

 高校時代の恩師・下村大介監督が語るとおり、今村のポテンシャルは日本ラグビー協会の目にすぐ止まり、高校3年時には「ジャパンエリートアカデミー」の一期生に選ばれた。その時のメンバーはFB五郎丸歩(佐賀工高)やWTB山田章仁(小倉高)など、高校ラグビーを沸かせた錚々たるメンツだ。

 もちろん、大学関係者も今村を放っておくわけがない。早稲田大の清宮克幸監督もその能力に惹かれ、スポーツ推薦でラグビー部に引き入れた。

 高校時代の今村は、当時の目標をこう語っていた。

「目標は大学日本一です。その後は日本代表になって、ワールドカップに出場して、いずれは海外にもチャレンジできれば......」

 早稲田大に進学した今村は1年生ながら「13番」を獲得し、2年時と3年時は大学選手権2連覇に大きく貢献。今村、五郎丸、SH矢富勇毅を軸とする早稲田大BK陣は「スターバックス」と呼ばれ、2006年2月の日本選手権2回戦ではトヨタ自動車ヴェルブリッツに28-24で勝利し、大学チームが18年ぶりに社会人チームを下す歴史的快挙も成し遂げた。

 日本代表で初めてキャップを獲得したのも、ちょうどこの時期。ジョン・カーワンHCからも実力が認められ、2007年・2011年と2度のワールドカップ出場を果たしている。

 今村のテストマッチで特に印象に残っているのは、2007年大会のウェールズ戦だ。前半18分、自陣ゴールライン5メートルでターンオーバーすると、今村が得意のランでボールを運び、相手を引きつけたのちに美しいラストパスを放って遠藤幸佑のトライを演出した。試合は18-72で敗れたが、ワールドカップで日本代表が見せた歴代屈指のトライシーンと言えるだろう。

【平尾誠二の思いも背負って初優勝】

 社会人としては大学卒業後の2007年、平尾誠二総監督に誘われて神戸製鋼を選んだ。社会人2年目からはプロ選手として契約し、深紅のジャージーの中心プレーヤーとして活躍する。

 ただ、神戸製鋼は2003年を最後に優勝から遠ざかっていた。今村は「どうしたら優勝できるのだろう......」と悩み、2016年に他界した平尾氏と最後に会った時も「俺のいる間に優勝してくれ」と言われ、優勝への思いはますます募っていった。

 しかし2018年、今村はケガの影響もあって2試合しか出場できなかったが、15シーズンぶりにトップリーグを制することができた。

「試合に出ているメンバーも、そうでないメンバーも、同じ方向を向くことができていました」

 ひとつの目標を叶えた今村は2019年、12年間在籍した神戸製鋼を離れる。当時34歳で一線から身を引く選択もあったが、「まだ選手として続けていきたい。チャレンジしたい」と現役を続行。その後3シーズン、宗像サニックスブルースでプレーし続け、最後はチーム休部とともにユニフォームを脱いだ。

 引退後は「どんな形であれラグビーに携わって、ラグビーに恩返ししたい」と語っていたとおり、指導者に転身。サニックスブルースが活動していた福岡県宗像市を中心に、子どもたちに向けてラグビー指導・普及を続けていた。

 そして2025年、思わぬ報が飛び込む。今村は家族でインドネシアのバリ島への移住を決めた。理由は実にシンプル。「挑戦する姿を見せたい」。40歳になった今村雄太は、妻と3人の娘とともに新たなチャレンジを始めている。

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