福岡ソフトバンクホークスCBO 城島健司インタビュー(前編)

 幼い頃に聞かされた"世界のホームラン王"の伝説。やがてその王貞治氏が監督を務める福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団し、正捕手としてチームを引っ張る存在となった城島健司氏。

出会いから衝突、そして信頼に至るまで、王監督との濃密な日々を、ホークスCBO(チーフベースボールオフィサー)となった今、あらためて振り返る。

「君がマスクを被るのは優勝するためだ」 世界の王貞治と20歳...の画像はこちら >>

【王監督との運命的な出会い】

── 城島さんは幼少期からすでに王さんへの憧れを抱いていたと聞きます。でも本格的に野球を始めた小学校4年生の頃といえば1986年なので、すでに「王選手」の時代ではなく巨人の4番といえば原辰徳選手だったのでは?

城島 そうです。王さんは僕が4歳の時に引退していますから。だから現役の記憶はないんです。だけど、僕が野球を始めた頃、親父に「健司、すごいバッターがいたんだぞ。世界記録のホームランを打ったんだぞ。オマエも王さんみたいになるんだ」とよく聞かされていました。地元の長崎で、当時野球中継といえば巨人戦。まだホークスも福岡に移転する前です。

 それに、僕がテレビで見る王さんってホームランを打つシーンばかりじゃないですか。そりゃそうですよ。王さんの現役時代を紹介する時に三振しているとこは流さないでしょ(笑)。

だから、「ホームランばかり打つすごい人なんだ」とイメージがすごく膨らんでいたのは確かでした。

── そして王監督が就任したばかりのダイエーにドラフト1位で入団しました。

城島 本当に運命というか、すごい縁だなと思いました。ただ、入ってみると王監督に「うわっ!」とはならず、むしろ秋山(幸二)さんとか工藤(公康)さんを見た時のほうが興奮しました。僕の学生時代は西武が黄金期。そして日本シリーズはまだデーゲームの時代。体育の授業中とかに体育館の裏に行って、テレビがあるところを見つけて日本シリーズを見てました。だから「あの時の秋山、工藤がいる!」って(笑)。王さんはやっぱり現役時代を知らないから、世界のホームラン王と言われても、どこか別世界な感じだったんですよね。

── 当時のダイエーは低迷期。そんなチームが王監督のもとで少しずつ変化していくわけですね。

城島 僕がルーキーで、王監督は就任したばかりの1995年のオーストラリアでのキャンプ。

その最初のミーティングで、王監督はこんなことを言いました。「日本人は気持ちを表現するのが下手だから、好きな人にアイラブユーを言えない。でも、我々プロは優勝するというのをはっきり口にしないといけないんだ」と。

 正直、当時のホークスはそんなことを言える成績じゃありません。でも王監督は「君たちに優勝を味わってほしいんだ」と強く言っていました。ただ、あの時の僕はまだルーキーなのでチームの優勝よりも自分のことで精一杯。周りに目を向ける余裕がなかったのが正直なところです。

【20歳にしてホークスの正捕手に】

── ファームで経験を積んで入団3年目の1997年シーズン、20歳にして開幕マスクを被ることになりました。

城島 前年までの正捕手はパ・リーグのベストナインも獲っていた吉永(幸一郎)さん。僕にすれば雲の上のすごいキャッチャーですよ。その人をほかのポジションに回して、僕がマスクを被ることになった。正直、「なんでオレなんだろう?」と思いましたよ。

ただ、王監督にはこう言われました。「君がマスクを被る理由。それは優勝するためなんだ」と。自分を使ってくれる王監督のために優勝して恩返しをするんだ。そう決心したのです。

── 真の師弟関係が本格的に始まっていくのですね。

城島 そうですね。王監督が何を考え、どんな野球をやりたいのか、それらのすべてをキャッチャーである僕が誰よりも知っておかないといけないと思いました。若かろうがベテランだろうが監督のやりたいことを体現しなきゃいけない。それがキャッチャーというポジションです。

 言葉が正しくないかもしれませんが、監督に赤信号でも突き進めと言われたら「わかりました!」と前進する。次の交差点でどちらに曲がるのか、それを予測する気構えも必要なんです。

将棋に例えるなら僕らが駒になり、監督は俯瞰しながら指しているわけですよ。まだ20歳の僕でしたけどそのように考え、それができなければチームを勝たせることはできないと思っていました。

── 王監督の野球を体現するために、時には正面からぶつかったという話もよく耳にしますが。

城島 正捕手になったばかりの頃は、当然ながらうまくやれないことばかり。だけど、とにかく同じ失敗はダメだと思って監督の部屋を訪ねて、何度も膝を突き合わせて話をしました。そのたびに怒られましたよ。だけど、僕もハタチの若造ながらに遠慮せずにぶつかる。だから言い合いになることもしょっちゅうでした。手を上げられたことはなかったけど、椅子が飛んできたことはありました(笑)。

 試合中だってベンチでは監督のすぐ目の前に座るから、攻撃中は自分の打順以外グラウンドに背を向けてしゃべっているほうが多かった。王監督も僕との話に熱くなって三塁コーチャーにサインを出すのを忘れて、周りから「監督!」と声が上がることもありました(笑)。いま考えると、まだハタチで経験も知識も少なくて幼稚な話をしていたはずです。

それでも王監督はしっかり耳を傾けてくれていました。若いなりにコイツは一生懸命しゃべっているな、自分の思いをぶつけてくるなと思ってくれていたのではないでしょうか。

── ただ、1997年も4位で20年連続Bクラス。1998年は3位タイでAクラス入りも優勝は果たせませんでした。

城島 1998年は最後の最後まで優勝争いに加わって、シーズンの残り5試合を全勝すれば優勝のチャンスがあるというところまでいきました。だけど、結局は5連敗。ただ、優勝の目がなくなった時も、王監督は「せめて2位になろう」とか「Aクラスで終わろう」などとはいっさい言いませんでした。

 当時はずっとBクラス。普通ならばAクラス入りだってモチベーションになると思うじゃないですか。だけど、王監督のなかでは、優勝しなければ2位も6位も同じ。最初にオーストラリアで「君たちに優勝を味わってほしい」と言ったあの時から、何もブレなかったんです。2025年の今でも同じですよ。

今日まで王さんの口から優勝以外の言葉は聞いたことがありません。

つづく>>


城島健司(じょうじま・けんじ)/1976年6月8日生まれ、長崎県出身。別府大付高(現・明豊)から94年ドラフト1位でダイエー(現・ソフトバンク)に入団。入団3年目の97年から正捕手となり、99年は全試合出場を果たし、球団初のリーグ優勝、日本一に貢献。その後も"強打の捕手"としてホークス黄金期を支えた。2006年にFA権を行使し、シアトル・マリナーズに移籍。捕手としてレギュラーを獲得し、18本塁打を放った。その後、09年までプレーし、10年に阪神で日本球界復帰。12年に現役を引退し、趣味である釣り番組に出演するなどタレントとして活動していたが、20年からソフトバンクの会長付特別アドバイザーとして球界に復帰。25年からホークスのCBO(チーフ・ベースボール・オフィサー)に就任した

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