連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第2回 村主章枝 前編(全2回)

 2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会~2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。第2回は、ソルトレイクシティとトリノの2大会に出場した村主章枝の軌跡を振り返る。

前編は、初の五輪ながら伸び伸びと滑り観客を魅了したソルトレイクシティ五輪について。

村主章枝がソルトレイクシティ五輪で見せた強さ 観客の心をつか...の画像はこちら >>

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【初の大舞台でノーミスの演技】

 2002年ソルトレイクシティ五輪。男子シングルではショートプログラム(SP)2位発進でメダルへの期待を感じさせた本田武史の活躍に胸を躍らせた。本田は惜しくも総合4位。そして、女子シングルでは初出場の村主章枝がインパクトのある演技を見せた。

 村主は、1997年に全日本選手権を初制覇して世界選手権に初出場。1枠を争った1998年長野五輪代表の座は、ケガもあって全日本で逆転負けし1歳下の荒川静香に譲った。だが2000−2001シーズンは、全日本で4年ぶりに優勝すると四大陸選手権でも優勝。日本勢ひとりだけの出場だった世界選手権では7位になり、ソルトレイクシティ五輪出場の2枠を獲得した。

 その五輪代表争いでは日本女子で唯一GPファイナルに進出した恩田美栄が先に内定。村主は全日本で荒川を破って連覇を果たし初の代表を決めた。五輪シーズンに入ると、アメリカとロシアなどの主力選手が出場したシーズン初戦のグッドウィルゲームズでは3位になり、存在感をアピールしていた。

 ソルトレイクシティ五輪での村主のSPは、観客の心をつかむ演技だった。

プログラムは、『アヴェ・マリア』。冒頭の3回転ルッツからの連続ジャンプは余裕をもって跳ぶと、スピードに乗った伸びのある滑りから3回転フリップも決める。後半のスパイラルシークエンス、高さのあるダブルアクセル、伸び伸びとスケートを楽しむようなサーキュラーステップのあと、コンビネーションスピンも最後は高速回転でノーミス。満足の表情で終わる演技だった。

 だが、前季世界選手権優勝のミシェル・クワン(アメリカ)や2位のイリーナ・スルツカヤ(ロシア)、3位のサラ・ヒューズ(アメリカ)ら有力選手が残っている状況で、滑走順2番目の村主の点数は伸びなかった。リクワイアード・エレメンツやプレゼンテーションで村主を高く評価するジャッジもいたが、極端に点を抑えるジャッジもいてSPは7位にとどまった。

【納得の滑りで5位入賞】

 それでも2日後のフリーは、第3グループ1番滑走ながら、SP同様にスピードと流れのある滑りでわずかなミスだけに抑える納得の滑り。ジャッジ9名中1名が4位、6名が5位の評価の得点を出し、総合5位に上げる強さを見せたのだった。

村主章枝がソルトレイクシティ五輪で見せた強さ 観客の心をつかんだ『アヴェ・マリア』
photo by Getty Images

 その1カ月後、長野で開催された世界選手権で村主はSP2位発進から総合3位で表彰台に上がると、翌2003年世界選手権でも3位になり、2004−2005シーズンはGPファイナルで日本人初優勝を果たす。

 さらに、2006年トリノ五輪の出場枠がかかった世界選手権でもSP10位発進ながら、フリーで追い上げて日本勢最上位の5位になり3枠獲得に貢献した。

 しかし、トリノ五輪シーズンになると股関節痛が悪化。GPシリーズ初戦のスケートカナダは、フリーでジャンプのミスを連発して8位と出遅れてしまう。

NHK杯は2位と盛り返したものの、GPファイナル出場は逃してしまった。ファイナルには、年齢制限で五輪には出られない浅田真央を含めて3名が進出。五輪代表争いはGPシリーズの成績ポイントも選考基準に入るため、村主は厳しい状況に追い込まれていたーー。

後編につづく

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<プロフィール>
村主章枝 すぐり・ふみえ/1980年、千葉県生まれ。幼少期をアメリカ・アラスカ州で過ごし、ウインタースポーツに親しむ。帰国後、6歳でフィギュアスケートを始める。1997年、16歳の時に全日本選手権で初優勝。以降、同大会で5回優勝。2002年ソルトレイクシティ五輪、2006年トリノ五輪で2大会連続入賞。日本人初となるGPファイナル優勝、四大陸選手権優勝3回など世界トップスケーターとして活躍。2014年、28年間の競技者生活を引退。2019年に拠点をアメリカに移し、コーチや映画プロデューサーとして活動する。

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