【平成の名力士列伝:小錦】土俵を席巻したケタ外れのパワー 頭...の画像はこちら >>

連載・平成の名力士列伝51:小錦

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、小錦を紹介する。

連載・平成の名力士列伝リスト

【「黒船」と恐れられた圧倒的パワーで快進撃】

 ハワイからやって来た若者が、200キロを超える巨体から放つ圧倒的なパワーで番付を駆け上がり、横綱・大関も吹っ飛ばす――昭和時代末の土俵に現れ、その衝撃的な登場から「黒船」と恐れられた小錦は、やがて訪れた試練を乗り越えて外国出身力士として初めて大関の座をつかみ、平成時代には、独特のキャラクターで存在感を放つ人気力士として多くのファンに愛された。

 ハワイ出身力士の先駆者・高見山にスカウトされて来日し、高見山と同じ高砂部屋に入門して昭和57(1982)年7月場所で初土俵。大男ぞろいの相撲界にあっても破格の巨体で、新弟子検査では用意された体重計の目盛りをはるかに振りきったため、体重計2台に片足ずつ乗って史上最高の233キロを記録。ただ大きいだけでなく、アメリカンフットボールのハワイ高校代表に選ばれるなど運動能力も高く、明治時代の横綱が名乗った高砂部屋伝統の四股名「小錦八十吉」をいきなり名づけられた。

 そんな期待に違わぬ強さを発揮して番付を駆け上り、わずか2年で新入幕を果たす。そして、相撲史に残る旋風を巻き起こしたのは、幕内2場所目の昭和59(1984)年9月場所だった。

 西前頭6枚目で、本来は上位陣と対戦する地位ではなかったが、快進撃を続けて10日目には8勝2敗と勝ち越し、11日目には抜擢されて横綱・隆の里と対戦し、押し出して快勝。初土俵から14場所目での金星は当時史上最速だった。12日目には1敗で首位タイの大関・若嶋津と対戦。前場所優勝して綱取りがかかる実力者にモロ差しを許し、下手投げで揺さぶられたが慌てずこらえ、最後は寄り切った。13日目には関脇・大乃国を上手投げで退け、14日目には横綱・千代の富士と対戦し、一方的に押し出して快勝。

 1敗の平幕(前頭12枚目)・多賀竜に1差でつけて迎えた千秋楽は大関・琴風に屈し、優勝こそならなかったものの、海を渡ってやって来て、常識外れの巨体とパワーで横綱・大関を次々と破る衝撃的な姿は、幕末の日本に西洋の進んだ文明を知らしめたアメリカの蒸気船ペリーになぞらえ、「黒船」と恐れられた。

 ただ、体が大きいだけではなく、頭脳明晰で稽古熱心。日本語の上達は早く、相撲界のしきたりにも順応し、研究を重ねて、パワーを生かした突き押しだけでなく、右四つに組んで寄る相撲も習得。三役や三賞の常連となり、昭和62(1987)年5月場所後に外国出身力士として史上初めて大関に昇進。いよいよ優勝、横綱と期待された。だが、なかなか壁を破れなかった。

【大関陥落後もひと向きに相撲と向き合う】

【平成の名力士列伝:小錦】土俵を席巻したケタ外れのパワー 頭の回転の早い陽気な性格も人気に 外国出身力士初の大関
規格外の巨体とパワーの代償として、ヒザの故障との戦いも余儀なくされた photo by Kyodo News

 大きな障害となったのはヒザのケガだ。大関昇進前の昭和61(1986)5月場所8日目、北尾(のち横綱・双羽黒)との取り直しの一番で敗れた際に右ヒザを負傷。克服して大関昇進は果たしたものの、最高で285キロに達した体重を支えるヒザへの負担は大きく、悩まされ続けた。

 それでもあきらめずに努力を続け、平成元(1989)年11月場所、1敗の単独首位で迎えた千秋楽、関脇・琴ケ梅を寄り切って悲願の初優勝。勝ち残りの控えで流した大粒の涙が、これまでの苦労を物語っていた。さらに、平成3(1991)年11月場所では13勝2敗で2度目の優勝を果たし、翌年の1月場所は12勝3敗、3月場所は13勝2敗で3度目の優勝と安定した成績を続けたが、当時厳しく守られていた「2場所連続優勝」という横綱昇進基準は満たせず、綱取りは逃した。

 その後はヒザの不調で思うような相撲が取れなくなるうちに、ハワイの後輩である曙がかつての自分のように番付を駆け上がって大関に並び、あっと言う間に外国出身力士初の横綱をつかみとった。一方の小錦は、カド番で迎えた平成5(1993)年11月場所で負け越して大関陥落。13日目、負け越しが決まった一番の相手は曙だった。関脇でも大きく負け越して平幕に陥落し、三役復帰も果たせない日々が続いたが、それでも腐ることなく、懸命に土俵を務め続けた。

 小錦には入門以来、外国人出身力士ならではの葛藤があった。ハワイの先輩高見山は、小錦が幕内に上がる直前に土俵を去り、外国出身関取はひとりだけ。幕内に上がってきた頃の「黒船」の印象は鮮烈で、破格の巨体を生かした圧倒的な相撲が「あれは相撲ではない」と言われ、本人の「相撲はケンカだ」という発言が曲解され、批判を受けた。「横綱に上がれないのは人種差別」と発言したと報道され、物議をかもしたこともあった。

 しかし、大関から陥落しても真摯に土俵を務め続ける小錦の姿がファンの共感を呼んだ。陽気で頭の回転が早く、ウィットに富んだコメントで周囲を和ませる面がクローズアップされ、大関時代以上の喝采を浴びるようになった。

 平成6(1994)年2月に日本国籍を取得し、平成9(1997)年11月場所を最後に33歳で引退して年寄佐ノ山を襲名したが、ほどなく退職。「KONISHIKI」の名でタレントとして活躍しながら、相撲のイベントなどにも積極的に参加し、自らが現役時代に実感してきた相撲の魅力を世界中に発信し続けている。

【Profile】小錦八十吉(こにしき・やそきち)/昭和38(1963)年12月31日生まれ、アメリカ・ハワイ州出身/本名:塩田八十吉/所属:高砂部屋/初土俵:昭和57(1982)年7月場所/引退場所:平成9(1997)年11月場所/最高位:大関

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