東北学院「悲運のエース」が語るあの夏(前編)
伊東大夢という選手のことを「悲運のエース」と記憶する野球ファンは多いだろう。
2021年夏。
ところが、仙台育英が4回戦で仙台商に敗れる大波乱が起きる。群雄割拠の宮城を制したのは、伏兵の東北学院。「エースで4番」の大黒柱だったのが、伊東である。
【負けることなく終わった高校野球】
春夏通じて初出場だった東北学院は、甲子園初戦で優勝候補の愛工大名電(愛知)と対戦。田村俊介(現・広島)、寺嶋大希(現・NTT東日本)、宮崎海(現・横浜商科大4年)ら逸材を多数擁する愛工大名電に、伊東は3回までパーフェクトピッチングを見せる。東北学院は5対3で勝利し、2回戦に進出した。
ところが、ここでアクシデントが発生する。東北学院のベンチ入りメンバーのなかで、新型コロナウイルスへの陽性者が確認されたのだ。
陽性反応が出たのは1名だけ。当該選手をベンチから外して、2回戦に臨むことも可能だった。だが、東北学院が選んだのは、「出場辞退」という選択。
負けることなく終わった高校野球──。
その無念は経験した者にしか、知り得ない。当時、気持ちの整理がつかない様子の伊東のコメントがメディアに載ったこともある。あれから4年が経った今も、無念は成仏することなく、くずぶり続けているのだろうか。
現在、伊東は立教大の4年生。準硬式野球部でプレーしている。ドラフト候補と目された伊東が、大学で硬式野球を続けなかったことも驚きがあった。私は伊東に会うため、立教大のキャンパスがある池袋へと向かった。
「貴重な機会をいただいて、ありがとうございます」
伊東は初対面にもかかわらず、爽やかな笑顔をたたえて登場した。身長187センチの長身で、体重は高校時代より2キロ増えて90キロある。この肉体だけでも、大器のムードが漂う。
「育英の伊藤樹くんは格上すぎて、同じ県内にいても意識できるレベルじゃありませんでした。中学生の頃から雑誌で大きく取り上げられていて、僕は『読者側』でしたから」
「もともと野球は高校で終わるつもりだったので。『とりあえず偏差値が高い高校に行こう』と考えていました」
「甲子園の開会式は、僕たちは『お客さん』という感じでした。周りを見ながら『あ、智辯和歌山だ、大阪桐蔭だ』って。テレビのなかにいた人たちがたくさんいて。みんな体格がすごくて、目をギラギラさせていましたね」
伊東の言葉を聞きながら、私は違和感を拭えずにいた。質問に対して快活に受け答えてくれるのだが、伊東の言葉はどことなくドライで、他人事のようにも感じられる。「本当に甲子園で活躍した選手なのか?」という気さえしていた。
【愛校心も野望もなかった】
もしかしたら、私は大きな思い違いをしているのかもしれない。そんな予感を覚え、恐る恐る伊東に聞いてみた。「もしかして、東北学院の選手たちは自分たちのことを『強い』とは思っていなかったのでしょうか?」と。
すると、伊東は膝を打つように身を乗り出し、こう答えた。
「まったく思っていないです。
東北学院は、東北学院大の系列校である。仙台六大学リーグで優勝18回を誇り、岸孝之(楽天)を世に送り出している。大学のイメージと、OBに本田圭佑(西武)がいる実績もあり、私は東北学院を「甲子園に一歩届かない強豪」という位置づけで見ていた。
だが、当事者の認識とはギャップがあったようだ。伊東はこうも語っている。
「チームとして『甲子園で1勝』をスローガンに掲げてはいましたけど、正直言ってイメージしづらかったですね。練習時間も短かった(平日は2時間程度)ですし、夏の大会は県ベスト8が最高でしたから」
そもそも、東北学院に対する愛校心もなかった。高校受験の際、伊東が第一志望としていたのは公立の仙台三。だが、あえなく不合格に終わり、「滑り止め」として併願した東北学院に進学した。
「野球部のなかで、第一志望で(東北)学院に入った子はいなかったんじゃないですか。僕らの頃は男子校だった(2022年より男女共学化)ので、1年生の時は『女の子がほしいな......』と思ってばかりいました。公立校の文化祭に行って、華やかな雰囲気を見て、『うわぁ、学院、マジで嫌いだわ』って、思いましたから」
チームを指揮するのは、渡辺徹監督。東北学院から亜細亜大に進み、投手や学生コーチを務めたキャリアがある。亜細亜大といえば厳しい野球部で有名だが、渡辺監督が「亜細亜式」を持ち込むことはなかった。伊東は「大好きな先生です」と語る。
「亜細亜出身なのにギラギラしたところがなくて、学生主体で練習メニューも選手たちに決めさせてくれました。人として成長させてくださったと感じています」
【名伯楽の指導でメキメキ頭角】
技術的な転機も高校時代に訪れた。
伊東はもともと、自分の技量に対して自信があったわけではない。小学6年時には、12球団ジュニアトーナメントの楽天ジュニアを受験。伊藤樹らが合格を勝ち取るなか、伊東は一次選考で不合格。
高校2年時に、知人がある指導者を連れてきた。八戸学院大の正村公弘監督(現・亜細亜大監督)。伊東をスカウトする目的もあったようだが、正村監督は技術指導をしてくれた。
「アーム投げになっているから、それを矯正するにはテイクバックを小さくしたほうがいい」
それまでの伊東は「体を目いっぱい使おう」という意識から、腕の振りも大きくなっていた。本格的な技術指導を受けた経験がなかった伊東は、興味本位でショートアーム式の投球フォームを試してみた。すると、コントロールがよくなる実感があった。
「そこからですね。春になって、バッターの反応が明らかに違うんです。空振りやファウルを取れるようになって、カウントが整えられるようになりました」
球速は最終的に最速142キロまで向上する。正村監督といえば、2018年に「金農旋風」を巻き起こした金足農(秋田)の吉田輝星(現・オリックス)を指導し、進化に寄与している。
春の宮城大会では、東北学院は3位に進出。準々決勝で前年秋にサヨナラ負けした古川学園と再戦し、3対0と完封勝利を収める。伊東は「古川学園にリベンジすることだけを考えていたので、うれしかったです」と振り返る。
準決勝の相手は絶対王者の仙台育英。東北学院は伊東が先発を回避するなか、仙台育英に食らいつく。最終的に4対5で敗れたものの、善戦した。
それでも、伊東のなかで仙台育英への対抗心が湧くことはなかった。
「正直言って、勝てないなと思いました。リードしていても、最後はリリーフした自分が打たれて負けて。『やっぱりこうなるよな』という思いはありました」
「大夢」という壮大な名前とは裏腹に、甲子園など夢のまた夢。そんな伊東に、狂騒の夏が待っていた。
つづく