栄光の夏から60年~三池工業の今(前編)

 かつて炭鉱の街を沸かせた快挙から60年の年月が過ぎようとしている。福岡県の最南端、九州のほぼ中央に位置する大牟田市は、明治以降、三池炭鉱と石炭化学コンビナートの隆盛とともに発展を遂げ、日本の近代化を支えてきた。

 2015年には、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として宮原抗(みやのはらこう)、三池炭鉱専用鉄道敷跡、三池港が世界文化遺産に登録。今年は10周年のメモリアルイヤーとして、市内各地でイベントが開催されている。

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【前代未聞の優勝パレード】

 1965年夏。三池工の甲子園初出場初優勝は、労働争議(三池闘争)や、大勢の犠牲者を出した炭塵爆発事故で沈んでいた大牟田の地に希望の光を灯した。小倉駅から赤いオープンカーに乗り込み、その距離150キロに及ぶ前代未聞の優勝パレードを決行。一団が郷里へ凱旋すると、当時の市内人口20万人を優に超える30万人が沿道に詰めかけた。

 当時12歳で、大牟田市内の小学校に通っていた真弓明信さん(元阪神監督)は、このパレードに感激し、将来野球選手になることを誓ったという。

 おらが街のヒーローたちをひと目見ようと、車のボンネットや電信柱に登るファンも続出。その熱狂ぶりは、大牟田市最大のイベントで、毎年7月下旬に開催される「おおむた大蛇山まつり」の比ではなかった。その伝統ある祭りが、今夏は三井化学大牟田工場で起こったガス漏れの影響で急遽中止となってしまったことは残念でならない。

 現在、三池工で指揮を執るOBの境直紀監督は1980年生まれの45歳。当時はまだ生まれてすらいないが、60年前の伝説は至るところで伝え聞いてきた。

「小倉駅から大牟田までものすごい距離ですよね。

映像や写真も学校に残っています。市庁舎の屋上や窓からも人がウワァっといて、昔の大牟田市の人口をはるかに上回る、けっこうな数の人がパレードを見守っていたと聞いています。今では考えられないですね」

【高校野球】今も色褪せぬ60年前の記憶 三池工が甲子園でつかんだ栄光と炭鉱の街を包んだ伝説の150キロパレード
三池工の中庭に植樹されている月桂樹の説明文 photo by Uchida Katsuharu
 同校の中庭に植樹されている月桂樹も伝説のひとつだ。優勝パレードの際、人波から投げ込まれた苗を大切に育て、60年が経った今でも深緑の葉を茂らせている。その傍らに建つ「祝全国制覇」の文字が刻まれた記念碑とともに、その偉業を今に伝えている。

 月桂樹の花言葉は「勝利」「栄光」「栄誉」。夏の甲子園で優勝した工業高校は、今年で107回を数える夏の甲子園で三池工ただ一校しかいない(選抜は1968年春の大宮工のみ)。あの夏、三池工は花言葉が示すとおりの「栄誉」を手に入れたのだ。

【原貢監督の熱血指導】

 その伝統ある野球部の礎を築いたのが原貢監督だ。原辰徳さん(前巨人監督)の実父、菅野智之(オリオールズ)の祖父でもある貢さんは1959年、東洋高圧(現・三井化学)大牟田に勤務しながら、三池工の監督に就任。福岡でもまったくの無名校をゼロから叩き上げ、その6年後、28歳の若さで日本一監督へと上り詰めた。

 1965年夏の第47回大会は、銚子商(千葉)・木樽正明、高鍋(宮崎)・牧憲二郎、報徳学園(兵庫)・谷村智博と、のちにドラフト上位でプロ入りする右腕3人に注目が集まっていた。三池工は準々決勝で報徳学園を相手に延長10回、3対2でサヨナラ勝ちすると、決勝では銚子商を2対0と、ビッグ3の2投手を打ち崩しての栄冠は決してフロックではないだろう。

 攻撃野球を信条とするその打撃理論も、当時としては画期的だった。投手の球筋を見極めるために、前ではなく、捕手側へとボールを引きつけて打つ指導を徹底。自腹を切って選手一人ひとりに合わせた特注の木製バットを熊本の工場から取り寄せたほどだ。

 貢さんは東海大相模(神奈川)の監督として1970年夏には再び日本一に輝いた。相模野球の代名詞である「アグレッシブ・ベースボール」の原点は、三池工にあるといっても過言ではないだろう。

 境さんも直接面識はないながらも、原貢野球のDNAを受け継いでいるひとりだ。中学時代に在籍していた硬式野球チーム「高田ファイターズ」(福岡県みやま市)で当時監督を務めていた瀬口健さん(現・総監督)は、三池工優勝メンバーのひとり。準決勝の秋田戦では、満塁から走者一掃の逆転三塁打を放つなど、「2番二塁」でいぶし銀の活躍を見せた。

 その偉大なるOBから、三池工への進学を勧められたからこそ、今があると自覚している。

「もちろん、甲子園で優勝したことのあるチームだということと、私たちの頃の三池工は力のある選手がある程度揃っていたので、そういうところで野球ができるよという話はいただきました。中学3年間、原貢さんの指導を受けた方から私も教わったので、知らないうちにそういった教えが入っているのかもしれませんね」

【現役部員とOBたちとの積極的交流】

 その教えや記憶を後年へと継承すべく、生徒たちにも積極的に働きかけを行なっている。学校創立100周年の2008年には、原辰徳さんがビデオレターで祝福。

野球部のOB会総会などの集まりに現役部員も参加させ、当時の映像などを流しながら、先輩たちと積極的に交流を図らせている。

「最近では学校の歴史をあまり知らないまま入ってくる部員も多いです。全国優勝した時は、原辰徳さんのお父さんが監督をしていたことや、パレードの映像や写真を見せて、大牟田市にこんなに人がいたということを伝えたりしています」

 全国的に私学優勢の流れは、福岡県も例外ではない。2000年代に入ってからの四半世紀で甲子園に出場した公立校は、戸畑(2000年春、2005年春)と、東筑(2017年夏、2018年春)の2校のみ。今夏は134校132チームが出場した激戦区を勝ち上がるのは至難の業だ。それでも高校球児の目標は甲子園出場に他ならない。

「本当にあのパレードに集まったファンの数は衝撃でした。またなんとか甲子園に出場して、大牟田の街に活気を取り戻したいですね」

 あの夏から幾重の年月が過ぎようとも、三池工が果たした偉業が色褪せることはない。今年も生い茂る月桂樹は、変わることなく、2度目の聖地出場を待ち続ける。

つづく

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