東洋大姫路・木本琉惺「下剋上物語」(後編)
このままでは、自分の高校野球が終わってしまう──。
進退きわまった木本琉惺は、自分に何ができるかを自問自答した。
【3年春の県大会で初のベンチ入り】
「自分にはパワーがない。それなら、足とバントでアピールするしかない」
東洋大姫路の打撃練習は、6カ所設けられたケージを回って打ち込む。周りが快音を響かせるなか、木本はひたすらコツコツとバントを繰り返した。
「6カ所のうち、4~5カ所でずっとバントをしていました。真っすぐも変化球も、いろんなパターンを練習しました。たまに打つことはありますけど、打ったってパワーがないので。8割はバントしてました」
苦手だったセーフティーバントも、猛練習を重ねた。いつしか、「うまくなってきた」と自信がついてきた。
ただし、3年春のセンバツでも、背番号をもらえる20人のメンバーには入れなかった。チームは阪下の故障もあり、2回戦で敗退。木本にとって甲子園へのチャンスは、夏を残すのみとなった。
ここで、あるアクシデントが起きた。春の県大会を前に、中堅レギュラーの伏見が負傷したのだ。
「ランナー付きのノックで、率先してランナーをして、足をアピールしました。とにかく足とバントだけには自信があったので」
チームもバントができるつなぎ役を求めていた。欠けていたピースがハマるように、木本は初めてのベンチ入りを果たす。
だが、すべてが順風満帆だったわけではない。近畿大会の大阪桐蔭戦では、得意のはずのバントを失敗してしまう。
「失敗を引きずって、バントのやり方がわからなくなりました。練習でもミスばかりして......」
せっかくつかんだチャンスをふいにしてしまうのか。焦る木本を救ったのは、またしても仲間たちだった。
「いろんなヤツがアドバイスをしてくれて、ひたすらバントの練習をしました。1年の頃から同期には助けられてばかりでしたね」
【チーム最多犠打で甲子園出場に貢献】
復調した木本は、3年夏の兵庫大会を背番号8で迎えた。そして、今までの鬱憤を晴らすかのように、快進撃を見せる。
木本が7試合で残した成績は、打率.423、0本塁打、2打点、2盗塁。
あらためて、木本に聞いてみた。兵庫大会で放った11安打のうち、バント安打は何本あったのかと。すると、木本はニヤリと笑って、こう答えた。
「数えきれないくらいです」
初めての甲子園の舞台。幼少期から高校3年の春まで、スタンドしか入ったことがなかった。初めて踏みしめた聖地は、今までの景色とは違っていた。
「アルプス(スタンド)とは、全然違いました。『こんなに人が見えるんや』って。人が多くてビックリしました。歓声が気持ちよかったですね」
甲子園初打席、投前に犠打を決めた瞬間、木本は確信したという。
「今日は全部決まるな」
【パワーのないほうがヒットになる】
取材中、木本の現代の高校球児とは思えない細腕が目に入り、思わず「上半身のウエートトレーニングはしないのですか?」と聞いてしまった。
「パワーがないほうが、逆にヒットになるんです」
どういう意味かわからず戸惑っていると、木本は助け船を出してくれた。
「パワーをつけたほうが打球は飛ぶと思うんですけど、自分の場合は今くらいの体のほうが、ちょうどヒットゾーンに打球が飛ぶので。筋トレは走力を落とさないように、下半身だけやっています」
この日、木本は2打席目に中前に落ちる安打を放っていた。だが、もし木本が上半身を鍛えていたら、飛距離が伸びて中飛になっていたかもしれない。少なくとも、木本はそう信じている。
5打席目には、訓練を重ねたセーフティーバントを成功させた。一塁にヘッドスライディングした木本は、塁上で土をはたきながら、もう次の塁を狙っていた。甲子園で戦っているあいだ、絶えず思いを秘めていた。
「アルプスには、ベンチ入りの最終候補になりながら外れた3年生がいっぱいいるので。適当なプレーなんてできません。常に集中していました」
自分の武器と弱点を見つめ、チームから求められる役割を探し、ひたすら努力する。
木本は言う。
「何回もあきらめかけました。1、2年の頃はとにかく下っ端やったんで。でも、同期や親に支えられて、とにかく努力して。甲子園までたどり着けるんやな。下剋上ってあるんやなと実感しています」
まだ、頂は先にある。それでも、木本の歩みはスタンドでくすぶる全国の野球部員にとって光になるはずだ。