連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第3回 高橋大輔 中編(全3回)

 2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会~2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。第3回は、トリノ、バンクーバー、ソチの3大会に出場した高橋大輔の軌跡を振り返る。

全3回の2回目(中編)は、日本男子初の五輪メダルを獲得したバンクーバー大会への道のりについて。

高橋大輔の日本男子初五輪メダルまでの過酷な日々 一か八かで手...の画像はこちら >>

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【東京開催の世界選手権でうれし泣き】

 日本男子たったひとりでの戦いで、しかもショートプログラム(SP)1番滑走とフリー最終滑走という大きなプレッシャーがかかる舞台を経験した2006年トリノ五輪。とくにフリー最終組最終滑走は、場内に響く大歓声を聞くうちに不安になって自信をなくしたといい、自滅する結果になった。

 だが、高橋大輔を指導する長光歌子コーチは、「トリノの経験が次の世界選手権の最終滑走で生かせた。どんなに会場が湧いても、びくともしなくなった。一回経験したらそれを次に生かせる能力がすごいと思いました」と評価する。

 トリノ五輪は納得しきれない結果ではあったが、8位入賞。世界トップを本気で狙う意欲を持った翌2006−2007シーズンに、高橋は一気に成長した。

 GPシリーズのスケートカナダで2位となると、NHK杯はSPで自己ベストの84.44点を出して首位発進。フリーでは2シーズンぶりに4回転トーループを決め、合計得点はこれまでの公認自己ベストを30点近く上回る247.93点として初優勝を果たす。

 さらにGPファイナルも、腹痛や吐き気がある最悪な体調ながら日本男子過去最高となる2位になり、その2週間後の全日本選手権も優勝した。

 そして3回目の挑戦となった2007年世界選手権は、2002年以来5年ぶりの日本開催となった東京大会。SPは2人前のブライアン・ジュベール(フランス)が4回転トーループを入れた構成で83.64点を出してトップに立った状況での演技だった。

「久しぶりに足がガクガクして緊張しました」という高橋は、最初の3回転フリップ+3回転トーループが回転不足と判定される滑り出しになり74.51点。79.90点のジェフリー・バトル(カナダ)に次ぐ3位発進となった。

 フリーでは最初の4回転トーループで手を着くミスをしたものの、そのあとはトリプルアクセル2本をしっかり決めて立て直してミスはなく滑った。合計では1人前に滑ったジュベールをとらえきれずに2位だったが、フリーの得点は163.44点で1位。

「滑る前は泣きそうなくらい緊張しましたが、100%ではなくても東京のみんなの前で悪くない演技ができたのはよかったです。フリー1位の小さな金メダルをもらえたのはうれしいです」と、高橋は涙を流した。

「うれし泣きは初めてです」と言う高橋。7位になった織田信成とともに翌季の世界選手権出場枠3枠を獲得したことについては、「これでまた日本男子のレベルも上がってくると思うのでよかった」と語った。

 それまでは女子の人気が高かった日本のなか、男子への注目度を一気に高めていく契機になったメダル獲得だった。

【新たな表現に挑み世界トップへと駆け上がる】

 翌2007−2008シーズンはさらなる進化を見せた。2006年からトレーナーもついたなかで取り組んでいたのは、柔軟性をつけること。新採点システムではスピンやステップなどできちんと要素をこなしてレベルを上げるために必要度が増したからだ。

 その成果が徐々に出始めるなか、プログラムでも新たな世界に挑戦。

SPの『白鳥の湖 ヒップホップバージョン』だ。前季からコーチを務めているニコライ・モロゾフとともにニューヨークへ行き、ダンスレッスンを受けた。

 それまでも高橋のステップは世界トップレベルだと評価されていたが、ピップホップの曲に乗った滑りは、技術の高さを生かし、さらにキレ味を増したこれまでにない表現世界。「昔から音楽がかかると自然に体が動き出していた」と言う高橋のダンサーとしての資質が前面に出て、表現力でも高く評価されるようになった。

 その勢いはNHK杯連覇となって表われ、GPファイナルはステファン・ランビエール(スイス)に逆転され2位だったが、際どい勝負に持ち込んだ。全日本選手権は2位に35点以上の差をつけて圧勝した。

 2年連続表彰台を狙った世界選手権は、4回転2本に挑戦し転倒もあって4位にとどまったが、その前の四大陸選手権では4回転2本を決めたフリーで175.84点をマークし、合計は264.41点。この得点はともにトリノ五輪でエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)が出した当時の歴代世界最高得点を更新するものだった。高橋は世界のトップレベルに立ったことを証明したのだ。

【大ケガを負い過酷なリハビリ生活】

 しかし、シーズンが終わると不運に見舞われた。モロゾフコーチがライバルの織田ともコーチ契約をしたため、3年間続けてきた師弟関係を解消。さらに2008年10月末の練習中にジャンプの着地で右膝を痛めた。精密検査の結果は前十字靱帯と半月板の損傷だった。

 過去のフィギュアスケート選手で、そのケガから復活した選手はいないとも聞いた。だが高橋はスポーツ医学の進化を信じて手術を決断する。「どうせやるなら世界の頂点を目指したい。それなら一か八かで勝負をすべきだ」(高橋)と考えたからだ。

 2008年11月に手術をしてその2日後から復帰を目指すリハビリの日々が始まった。だが動かなくなった筋肉を奥のほうからほぐして動かせるようにする治療は、鋭い痛みを伴うものだ。1日8~9時間のリハビリが毎日続き、悲鳴を上げたのは気持ちのほうだった。

 年が開けた2009年2月のある時、気持ちがスッと切れてしまい、病院へ行くのをやめるとそれから1週間ほどは外部との連絡をいっさい絶って引きこもった。ある時は目的もなくフラッと新幹線に乗り、適当な駅で下車して時間をつぶしたこともあったと、高橋はのちに苦笑しながら振り返っている。

 長光コーチは連絡さえ取れなかった高橋が久しぶりに自分の家に来た時、「もうこれ以上あの子を追いつめるのはかわいそうだ。自分が周りの関係者に謝るだけ謝って、彼をもうスケートから解放させてあげよう」とまで思ったという。

 そんな葛藤のなかでも気持ちを取り戻した高橋は、再び厳しいリハビリ生活に戻ると4月4日には氷上練習ができるまでに回復し、6月からはジャンプも跳び始めた。

 だが、問題も出てきた。リハビリ期間中に故障の一因になった足首や股関節の硬さの解消にも手をつけ、下半身の可動域が広がりステップやスピンでは大きな動きができるようになった一方で、ジャンプの感覚が狂ってしまった。

 1年半ぶりの復帰戦だった2009年フィンランディア杯は優勝したが、GPシリーズのNHK杯のフリーでは4回転トーループだけではなく後半の3回転ジャンプでも転倒するミスが出て4位に。次のスケートカナダ2位で進出したGPファイナルでも、フリーはジャンプの失敗に加え、スピンが2本0点になるミスで5位と安定しなかった。

 それでも五輪代表選考会も兼ねた3週間後の全日本選手権は、261.13点で完全優勝。2回目の五輪代表を決めると、高橋は「全日本の優勝はうれしいけれど、まだちゃんと自分の演技ができるまでにはなっていません。堂々と五輪に行けるような演技ではないので、ここで喜んでいてはダメ」と気持ちを引き締めていた。

【日本男子初の五輪メダルは「ご褒美」】

 事前にカナダで1カ月ほど練習を積んでから臨んだ2010年バンクーバー五輪は、4回転ジャンプの感覚が戻りきっていない以外には問題なかった。その状態のよさは、SPでの完璧な演技で見せた。

 肉体改造の効果も感じさせるスピンは、3本とも最高難度のレベル4にするノーミスの滑りで、当時の公認大会自己最高の90.25点の3位発進。4回転トーループを跳んでトップに立ったプルシェンコとは0.60点の僅差だった。

「自分は練習してきたということだけを信じてできた。

得点を見た時にプルシェンコとそんなに離れてなかったので、フリーへ向けては変なプレッシャーがなくていいかなと思いました」

 そう満足気に話していた高橋。2日後に行なわれたフリーは、SP2位のエヴァン・ライサチェク(アメリカ)が4回転を回避し、合計を257.67点として暫定1位になったあとの演技だった。

「4回転を跳んでメダルを獲るというのが理想」と言った高橋は、冒頭の4回転に挑戦。転倒はしたが、そのあとは粘りの滑りを見せ、ミスも最小限に抑えて合計を247.23点として暫定2位につけた。

 最終滑走で4回転+3回転を跳んで合計を256.36点にしたプルシェンコには抜かれたが、日本男子初の銅メダルを獲得した。

「このメダルは僕にとってはご褒美だと思います」と笑顔で話す高橋は、「ケガをしたことはこれからの僕のスケートや人生にとってすごく勉強になった。今回は失うものがなかったけれど、これが最後ではなく通過点だと思っています」と言葉を続けた。

 その1カ月後の世界選手権。SPでトップに立つと、フリーでは冒頭に世界初の4回転フリップ挑戦。回転不足ながらも着氷するとそのあとはほぼノーミスの滑り。2種類のステップと3本のスピンは、シングル初のすべてレベル4獲得という快挙も果たし、優勝。初の世界の頂点を立ったのだった。

後編につづく

<プロフィール>
高橋大輔 たかはし・だいすけ/1986年、岡山県倉敷市生まれ。8歳でスケートを始める。2002年世界ジュニア選手権優勝。2006年トリノ大会、2010年バンクーバー大会、2014年ソチ大会と五輪3大会連続で入賞。バンクーバー大会では日本男子初の銅メダルを獲得。2014年に一度現役を退き、2018年に32歳で復帰。2020年にはアイスダンスへ転向し、村元哉中とカップルを結成。2022年全日本選手権で優勝。2023年に競技を引退し、現在はプロスケーターとしてアイスショーのプロデュース・出演を行なう。

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