連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第3回 高橋大輔 後編(全3回)
2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会~2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。第3回は、トリノ、バンクーバー、ソチの3大会に出場した高橋大輔の軌跡を振り返る。
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【史上初の達成感に翻弄されたシーズン】
2010年バンクーバー五輪と世界選手権のフリーの演技構成点はともに全選手中最高得点を出し、演技者の実力が認められた高橋大輔。だが、2014年ソチ五輪への再出発となった2010−2011年シーズンは、五輪銅メダルと世界選手権優勝という達成感に翻弄された。
指導する長光歌子コーチは、「シーズン前半は試合へ向けて戦う気持ちがないと感じたし、闘争心もない状態で練習をしていました」と高橋について話す。高橋本人もその後、「自分でもどうしていきたいのかがわからず、ずっと迷っている感じでした」と振り返ったように目標を見失い、競技続行をも迷っていた。
それでもこのシーズンの新ショートプログラム(SP)は、『白鳥の湖 ヒップホップバージョン』と同じくらいのインパクトがあった『マンボ』。得点は自己ベストと比べると大きく下回ったが、NHK杯とスケートアメリカを連勝した。
GPファイナルは公式練習中に小塚崇彦と衝突するアクシデントで首を痛めた影響もあって4位に沈んだが、その2週後の全日本選手権はSP4位ながら、「ここで終わったなと言われるのが嫌だったからがむしゃらになった」と話すフリーでは、ダウングレードにはなったが、4回転フリップに挑戦する意地も見せ総合3位に食い込んだ。
その後、四大陸選手権で優勝し結果は出しながらも、ミスは多く納得がいかない滑りになっていた。その気持ちが切り替わるきっかけになったのは、2011年の東日本大震災で東京開催が中止になり4月末からモスクワ開催となった世界選手権だった。
SPは4回転ジャンプを入れているパトリック・チャン(カナダ)と織田信成に次ぐ3位発進。逆転を狙ったフリーではスケート靴が壊れるアクシデントもあって、冒頭の4回転トーループが1回転になり、後半の3回転サルコウは転倒とミスが続いて合計は232.97点で5位だった。
優勝したのは前年の大会で高橋に次ぐ2位だったチャンで、SPとフリーでともに歴代世界最高得点を更新して合計を280.98点にした。
【3度目の五輪へ「最後までもがき続けた」】
決意を決めて2011年5月に右膝のボルト除去手術を受けた高橋は、「1年では結果が出ないだろうし、崩れることもあると思います。だからあまり焦らず、3年で自分のスケートをつくり上げていきたい」と話していた。そして、8月にはフランスへ渡り、アイスダンスのコーチの下でスケーティングの基礎を見直した。
それでも11月のGPシリーズのNHK杯では、SPで90.43点と自己ベストを出すと、フリーでは「4回転をトーループかフリップのどちらにするか迷ったけれど、6分間練習で初めて成功したのでやってみた」と転倒はしたものの、フリップに挑戦して逃げきり優勝。高橋は、「ケガをしてからいろんなことに取り組んできたが、それが成果になっています」と笑顔を見せた。
さらに12月のGPファイナルではSPで久しぶりに4回転トーループを入れた構成に挑戦。ミスもあって5位と出遅れたが、フリーで巻き返して総合2位に。その2週間後の全日本選手権ではSPで冒頭に4回転+3回転を入れた構成をノーミスで滑り、非公認ながら96.05点を獲得し、フリーでは追い上げられたが5回目の優勝を果たした。
さらに翌2012年3月の世界選手権では2位。4月の世界国別対抗ではSPで当時の公認世界歴代最高の94.00点をたたき出し、合計も歴代2位の276.72点とシーズン前の不安を一掃した。
ソチ五輪プレシーズン(2012−2013シーズン)は、フリーに4回転を2本入れる構成に挑戦した。GPファイナルはSPノーミスで首位発進のあと、フリーではミスが出ながらも羽生結弦の追撃を振りきって日本男子として初優勝を果たした。
ソチ五輪シーズン(2013−2014シーズン)はNHK杯で優勝しGPファイナル進出を決めるいい状況をつくったが、11月末の練習で右脛骨挫傷の負傷という不運に襲われた。長光コーチは「疲れたところに、さらに追い込んだ私のミスかもしれない。でもGPファイナル出場8回目は史上初だったし、全日本選手権ではどうしても勝たなくてはならなかった」と振り返る。
結局、GPファイナル出場を回避して、全日本選手権は5位。それでも五輪代表に選ばれた高橋にとって、ソチ五輪は文字どおり満身創痍での戦いとなった。
「すべてが順調にいっていたトリノ五輪やケガで4回転の感覚だけが戻っていなかったバンクーバー五輪とも違いました。ケガをしたのは自分のせいだけど、五輪が近づくと『これでいいのだろうか』と思ってしまい、調子が上がらないのに焦って余計にダメになったりして、本当にギリギリまでもがきました」と高橋は話す。
【いいことも悪いことも経て挑んだ最後の大舞台】
ソチ五輪では世界選手権3連覇中のチャンがいて、彼にGPファイナルで勝利して全日本も制していた羽生結弦もいる状況だった。高橋はソチに入ってからは「今のすべてを受け入れてやれることだけをやる」という気持ちになったという。
「正直なところ、自分の調子と周りの状態を見ればメダルは厳しいというのは100%わかっていました。ただ何が起こるかわからないというのが五輪だというのは2回経験している部分でもあったから......。
そのSP、最初の4回転トーループは両足着氷のダウングレードだったが、そのあとの要素はしっかりまとめて86.40点を獲得。先に滑った羽生の101.45点とチャンの97.52点には大きく離される4位だったが3位以下は、3.50点内に9選手がひしめき合う状況。そのし烈な銅メダル争いには踏みとどまった。
しかし、その戦いは厳しかった。「4回転ジャンプには不安があったので、そこは『奇跡を信じて』というのに近かったところはありました」と話す翌日のフリー。1本にした4回転はダウングレード判定になってメダルの可能性が消えると、後半最初のトリプルアクセルも回転不足で減点となる。結局、合計は250.67点で、SP11位の町田樹にも逆転される6位だった。
だが、『ビートルズメドレー』に乗った高橋の滑りは印象的だった。4回転ジャンプの失敗でも流れは途絶えず、そのあとの2本のジャンプをきれいに決め、しなやかなステップシークエンスは観客の心をつかんだ。
研ぎ澄まされた集中力と凝縮された緊張感が生み出す、静謐(ひつ)とも言えるしなやかな演技は、ひと筋の細い光となって見守る者一人ひとりの心の奥深くまで染み込んでくるようだった。「自分の演技だけは出しきりたいと強く思っていた」(高橋)という思いは貫き通した。
「6位という結果を見れば、『やっぱりバンクーバー五輪で終わっておけばよかったじゃないか』と思う人もいるかもしれないけど、自分としては2011年の世界選手権が終わってソチへ行くと決めてからの3年間はいいことも悪いこともたくさん経験した。
バンクーバー五輪のあとでやめなかったのは、あの緊張感を捨てがたかったということもあると思います。この先いつか引退してしまっても、またやりたくなってくるのかもしれません。まだやめたことがないからわからないですけど」
フリーが終わってから数日後に、笑いながらこう話していた高橋だが、1カ月後の世界選手権出場を辞退し、1年間の競技休養を表明。そして2014年10月には、現役引退を発表した。
だが、ソチ五輪で漏らした言葉どおりに、2018年に現役に復帰して全日本選手権は2位になる。さらにシングルで2シーズン過ごしたあと、2020年からは村元哉中とカップルを組んでアイスダンスにも挑戦した。
アイスダンスでの3シーズンの現役生活のなかで世界選手権にも2回出場し最高11位となり、アイスダンスへの注目度も高めた。これまでになかったロールモデルを提示して日本フィギュアスケート界に貢献し続けたのだ。
終わり
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<プロフィール>
高橋大輔 たかはし・だいすけ/1986年、岡山県倉敷市生まれ。8歳でスケートを始める。2002年世界ジュニア選手権優勝。