日本ボクシング世界王者列伝:勇利アルバチャコフ 「アマチュア...の画像はこちら >>

井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち11:勇利アルバチャコフ 

 ロシア人でありながら、日本のリングで大きな人気を集めたボクサーがいる。勇利アルバチャコフという。

1990年代、日本の協栄ジム所属として、WBC世界フライ級チャンピオンとなり、9度の防衛に成功した。クールなボクサーパンチャーで、攻防ともども、とんでもなくハイレベル。そのスピーディーにして切れ味抜群のパンチが、異邦人であったとしても、ファンの心のど真ん中をグサリと射抜いた。

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【目からうろこが30枚落ちた】

 アルバチャコフの話になると、あの時の光景が真っ先に頭に浮かんでくる。

 1990年2月1日、両国国技館では、アマチュア最強ソビエト連邦からやってきた6人のトップアマチュアが一気にプロとしてお披露目する『ペレストロイカ・ファイト』が行なわれていた。リングサイドで取材していた同僚記者が、チャコフ・ユーリ(アルバチャコフのデビュー当時のリングネーム)のTKO勝ちを見届けたあとのこと。アリーナ席最上階で観戦していた私を目ざとく見つけ出すと、せかせかと階段を駆け上ってくる。そして、顔を合わせるやいなや、だ。

「すげえな。アマチュアをなめてたよ。目からうろこが30枚は落ちたな」

 初の本格的ソ連製プロボクサーの初陣は、6人すべてがKO・TKO勝ちしたのだが、なかでもアルバチャコフのボクシングは出色だった。1989年のアマチュア世界選手権大会フライ級優勝者は、ウェイトの上では3階級上、スーパーバンタム級日本5位のアラン田中(仙台)と対戦し、まさしくセンセーショナルなパフォーマンスを見せつける。サウスポーの対戦者にタイムリーに打ち込む右ストレートはどこまでも鋭利で、すかさず切り返す左フックも縦横無尽。

クロスレンジの戦いになると、アッパーカットが真下から突き上げられた。初回は田中の出方をやや待っていたが、2ラウンドからはボリューミーな攻めで圧倒していった。3ラウンド、田中は何もできないまま殴られ続け、レフェリーは1度、スタンディングカウントを取ったあと、ストップをかけた。

『目からうろこ』発言の御仁ではないが、当時はまだ、アマチュア出身者に対して「うまいけど、ちょこちょこ打っているだけ」などという妙な偏見が残っていた。さらにソビエト連邦はアマチュアボクシングの総本山。小手先ボクサーの宝庫だなどと誤解ばかりが広まっていた。だが、アルバチャコフの超アグレッシブな戦いによって、やがて「アマチュア上がりはダメだ」などと言って触れ回る人は皆無になっていった。

 すべては、ペレストロイカのおかげだった。共産主義体制が行き詰まり、ミハイル・ゴルバチョフが手がける開放政策ペレストロイカは、北の大国にいるタレントも広く開放した。ソ連ボクシングの至宝たちが、日本のジムにやってきたのもそのプログラムの一環だった。そして、ソビエト連邦が崩壊しても、ボクサー育成の伝統は残った。連邦国家を構成したロシアやウクライナ、カザフスタン、ウズベキスタン、バルト三国などは単体の国家となっても、名ボクサーの産地になっていったのだ。

【ロシア初のプロの世界チャンピオンに】

 たちまち日本のファンの心をつかんだアルバチャコフの快進撃が始まった。6戦目には元IBF世界フライ級チャンピオンのローランド・ボホル(フィリピン)をわずか2ラウンドでKOする。8戦目で日本フライ級チャンピオンに。さらにプロ3年目の1992年6月23日、13戦目で世界フライ級王座挑戦のチャンスをつかむ(この時のリングネームはユーリ海老原)。場所はやはり国技館だった。

 チャンピオンのムアンチャイ・キティカセムはタイ人ボクサーとして初めて2階級制覇を達成した強打者だった。決して打たれ強くはないが、ダウンを喫しても何度でも立ち上がって細身の体から目いっぱいのパンチを振り回し、粘り強く反撃してくる。初回の終了ゴングと同時に強烈な右クロスでダウンを奪ったアルバチャコフも(ゴング後のヒットとしてカウントは取られず)、ムアンチャイの反撃に直面する。3ラウンド、右を浴びてダウンを喫したのだ。だが、アルバチャコフはひるまない。同じラウンド、左フックを決めて倒し返す。スリリングな打ち合いは8ラウンドまで続き、最後はアルバチャコフの右がカウンターとなって炸裂。ムアンチャイの体は顔面から転落するようにキャンバスに落下し、ピクリとも動かなかった。

 アルバチャコフはあまりに痛快なKO劇で、ロシア人のプロボクサーとして史上初めての世界チャンピオンになった。なお、1910~20年代にかけて複数のロシア国籍の世界王者が記録されているが、彼らは帝政ロシア末期のポグロム(ユダヤ人虐待)を逃れて米国にやってきた人々。その多くはウクライナ出身者だった。

【寒い国から出立し、アマチュアの世界王者に】

 アルバチャコフはシベリアの原住民でもある少数民族ショル族の子孫として、西シベリアのケメロヴォ州の寒村に生まれた。それぞれ4人ずつの連れ子を持つ夫婦の間に新たに生まれた2人目、そして末っ子だった。冬にはマイナス50度にもなる極寒の地には中等教育を受ける施設もなく、ユーリも年頃になると故郷を離れ、タシュタゴルという町の寄宿学校に入った。

 ボクシングとの出会いは13歳の時。専門のコーチがタシュタゴルに派遣され、ボクシング教室が開かれた。サッカーやバスケットボールが得意だった少年は、ボクシングにのめり込んでいく。学校を出て軍隊に入り、トップレベルのコーチとも出会い、めきめきと腕を上げた。18歳でロシア選手権2位、19歳でついに優勝を飾る。

「あの時の優勝が、ボクサーになって一番うれしかった」

 アマチュアボクシングの選手登録が25万人以上とされた当時のソビエトで、ナショナルチャンピオンシップを勝ち取ることは、オリンピックで優勝すること以上に難しいとされていた。

 1988年のソウル五輪時には国家代表の有力候補の一翼に挙げられながら、出場は叶わなかったが、その翌年、厳しい戦いを勝ち抜き、世界選手権に優勝する。

しかし、アルバチャコフの鼻血による負傷判定で、わずか1ポイント差での勝利判定を巡って、もめにもめた。

 その時に声をかけてきたのが、同じソビエト連邦のアマチュアボクサーであり、のちに協栄ジムのジムメイトにもなるソウル五輪ライトウェルター級金メダリストのスラフ・ヤノフスキーだった。日本のジム関係者が有力選手、とくにアジア系を日本に連れて帰りたがっている、と。練習するだけで月に2200ドル(現在のレートで約30万円)をくれるって。アマチュアの世界チャンピオンになっても、くすぶる評価に気持ちはもやついたまま。3年後のバルセロナ五輪に出場できる保証もない。しかも、2200ドルは当時のロシアの青年にとって目もくらむ大金だった。アルバチャコフは日本行きのペレストロイカ・ファイターの一員に加わった。

【9度防衛後、ブランクの果てに初の敗北】

 世界チャンピオンになったアルバチャコフの安定感は抜群だった。冴え冴えとした技巧が、そのパンチの切れ味を引き立てた。リングネームを『ユーリ海老原』『ユーリ・アルバチャコフ』『勇利アルバチャコフ』と変えていったが、存在感が薄れることはなかった。1996年、日本のホープ、渡久地隆人(十番TY)にTKOで圧勝し、タイトル防衛記録を9に伸ばした。

しかし、その渡久地戦で右拳を骨折する。その後の空白の時間は1年3カ月に及んだ。

 10度目の防衛戦、相手はブランクの間に暫定チャンピオンになっていたチャッチャイ・ダッチボーイジム(タイ)だった。2年前の直接対決で判定勝ちを収めている。

 しかし、アルバチャコフにかつての切れ味はない。じっくりとプレッシャーをかけてくるチャッチャイをコントロールできないまま、精彩のないラウンドを重ね、0−3判定負けで王座から滑り落ちた。その後、敗因は「たぶん、オーバーワークによるもの」とだけ語ったきり、2度とリングに上ることはなかった。

「ボクシングで強くなるためには、いろんなものを鍛えなければなりません。でも、一番、大事なのは闘争心です」(アルバチャコフ)

 戦いから離れている間、その大事な戦う心を見失ってしまったのか。考えてみれば、ユーリ・アルバチャコフという男は、ずっと気高く戦っていたのだ。リングの外でも同じ。自分自身とも、取材者に対しても。

 現役時代、この男の心からの笑顔を見た覚えがない。日本人女性を妻に持っていたから、多少なりとも日本語で話せるだろうと問いかけると、「ダメだ。ロシア語だけだ」とスキを見せなかった。

 ある時、彼を喜ばせようと、試合中の写真を大判のパネルにして持っていったこともある。右ストレートが相手の面前で、4分の3回転して裏のタテ拳になっている、かなり動的なショットだった。コークスクリューパンチ。拳を激しく回転させ、威力を倍加させる秘打でもある。だが、アルバチャコフはその写真を見るなり、ひどく不機嫌になった。

「これは偽物だ。何か細工したんだろう? 私はこんなパンチを打たない」

 いや、ホンモノだと言ってもてんで相手にしてくれない。その写真は長く協栄ジムの壁に飾ってあったから、きっとアルバチャコフはそのまま放棄したのだろう。

 引退してまもなく、東京・後楽園ホールで行われた格闘技イベントでアルバチャコフを見かけたことがある。知り合いのロシア人が大会に参加していた。試合後の控え室。当の選手が帰ってきて、アルバチャコフも姿を見せたが、通訳は現れない。しばらくたって、格闘技ライターのひとりが声をかけた。

「ユーリさん、通訳をお願いできませんか」。そんなおそろしいこと----。一瞬、私の体がこわばった。だが、アルバチャコフははにかんだような笑顔を見せると言った。

「ワタシでよければ」

 今、帰国してロシアにいるユーリ・アルバチャコフは笑顔を絶やさぬ、柔和な壮年になっているそうだ。心を尽くして戦いきった男すべてに、そんな幸せな第2のボクサー人生を歩んでほしいと、いつも思っている。

Profile
Yuri Arbachakov●1966年10月22日生まれ、ロシア・ケメロヴォ州ウスト・ケゼス出身。13歳でアマチュアボクシングを始め、22歳でアマチュア世界チャンピオンに。翌年、来日し、協栄ジムからプロデビューした。切れ味抜群のパンチと、確かな技巧で日本のファンの心をつかみ、1992年にWBC世界フライ級チャンピオンに。このタイトルは9度守った。97年にタイトルを失った後に引退。身長162cmの右ボクサータイプ。24戦23勝(16KO)1敗。現在はロシアに帰国し、サンクトペテルブルクに居住していると伝えられる。

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