【「どうやって投げればいいのかわからなかった」】

 高校生には無限の可能性が眠っている。

 今夏の甲子園で中越(新潟)の本格派右腕・石山愛輝(3年)を取材して、そう実感せずにはいられなかった。

【夏の甲子園2025】新潟・中越のドラフト候補が「投げ方」を...の画像はこちら >>

 8月13日、石山は関東一(東東京)との甲子園初戦に登板した。

6回裏からリリーフし、2回を投げて被安打1、奪三振1、与四球1、失点2(自責点1)。最高球速は144キロだった。チームは1対6で敗れ、初戦敗退に終わっている。

 もしかしたら、「期待外れ」と感じた野球ファンもいたかもしれない。石山は大会前から「最速148キロのドラフト候補」と注目されていたからだ。

 しかし、石山が今年の3月から6月の間、まともに投球できない投手だったという事実を知れば、きっと驚くに違いない。

 石山がたどった過酷な道のりを、本人の証言をもとに振り返ってみたい。

 石山は身長180センチ、体重78キロと均整の取れた本格派右腕である。昨秋はエースとして北信越大会に出場。翌春のセンバツ出場はならなかったものの、プロスカウトが注目する存在になった。

 もともと「高卒でプロに進みたい」と考えていた石山は、この時点で1年後にプロ志望届を提出する意思を固めている。

 野球人生を懸けた勝負の年。

だが、春先から石山は異変に襲われる。自分がどうやって投げていたのか、思い出せないのだ。

「春先に練習試合が始まって、マウンドに上がったんですけど、どうやって投げればいいのかわからなかったんです。『テイクバックはどうやって取っていたっけ』『足はどうやって前に出していたっけ』『リリースは?』......と全部わからなくなりました」

 原因不明。本格的な投球練習が不足しているなか、練習試合に登板して意気込みが空回りしたことも、背景にあったのかもしれない。

 春の大会は、中学時代からのチームメイトである左腕・雨木天空がエースとなり、チームは北信越大会ベスト4と躍進する。しかし、投げ方を忘れた石山に光は見えなかった。

【「選手を引退して、マネージャーになろうか」】

 石山は自分自身を「リセット」することを決断する。

「1回、秋までにやってきたことを忘れよう。またイチからフォームを作り直して、進化させるくらいのつもりでやろう」

 秋までの石山は、「ボールが高めに抜けてしまう」という課題があった。そこで、「"上から叩く"腕の振りにしよう」と改善。さらに「下半身をしっかり使えるようになろう」と体重移動を意識した。周囲は技術指導、メンタルケアと献身的にサポートしてくれた。

 投手としてカスタマイズし直す作業。それは精神、肉体ともにすり減らす日々だった。当然ながら、思うようにいかないこともある。

 チームを甲子園に導き、自分はプロへ行く。その夢を叶えるためのタイムリミットは迫っているのに、自分はマウンドに上がることすらできない。次第に、石山の内面は蝕まれていった。

「プロなんて、まったく考えられなくなりました。もうピッチャーをやめて、選手を引退して、マネージャーになろうかと思いました」

 5月下旬、本田仁哉監督に引退を申し出ると、「それは違うだろう」と説得された。本田監督は、石山の復活を信じていた。

「苦しかったと思います。3、4月は、まったく投げられませんでしたから。でも、石山はグラウンドだけでなく、日常生活でもボールを離さないくらいでした。

普通なら、ボールなんて見たくなくなると思うんです。ここまで努力できる子はいませんでした」

 石山は、修羅の世界で戦い続ける道を選ぶ。そして、ようやく光が見えたのは6月下旬のこと。夏の新潟大会は、ほぼぶっつけ本番だった。

【諦めなかった石山に訪れた突然の進化】

 関根学園との新潟大会準決勝、4回からリリーフ登板した石山は力がみなぎるような感覚を抱いた。

「下半身と上半身が、しっかり連動している感覚がある。自分の持っている力以上のボールが投げられている感じがする」

 2年秋までの石山の最高球速は143キロ。この日の石山は、自己最速の148キロを計測する。

 ただ球速が上がっただけではない。フォームを再構築したおかげで体重移動がスムーズになり、上から叩く腕の振りに変えたことでボールに角度がつくようになった。

 6イニングを投げ、被安打2、奪三振10、与四球0、失点0の快投。石山はチームを決勝進出に導いた。

「フォームがわからなくなった時は地獄でしたけど、あの時間があったから今の自分がいるのかなと。

自分が進化するために、神様に試練を与えてもらったのかなと思います」

 新潟産大付との決勝では先発するも、「雰囲気にのまれて、力んでしまった」と、2アウトしか取れずに2失点で交代。それでも、仲間たちが奮起して、逆転。甲子園出場をつかんだ。

 前述のとおり甲子園では初戦敗退に終わったものの、石山からすれば信じられない出来事だった。

「2、3カ月前の自分では、考えられないような場所でした。点は取られてしまいましたけど、ストレートが通用したのは収穫でした。思い切り投げられましたし、しっかりと投げられたことに驚いています。指導者の方々、周りの3年生に助けてもらったおかげです」

【プロ野球に「何が何でも食らいつく」】

 卒業後の進路について聞くと、石山は「プロ志望届を提出したい」と希望を口にした。育成ドラフトでの指名でも、プロに進みたいと熱望する。

「どんなに低い順位でも、行かせていただく形を取りたいです。何が何でも食らいついて、上のレベルで活躍し続けるピッチャーになります。いずれはプロを代表するピッチャーになりたいです」

 今年は有望な高校生がプロ志望届を提出せず、進学・就職の道を選ぶケースが目立っている。

そんな潮流のなか、どうしてもプロを目指すのか。そう尋ねると、石山は目を輝かせてこう答えた。

「逆にラッキーだなと思っています。いい選手が行かないということは、枠が増えるので。むしろありがたいです」

 地獄から這い上がってきた男は、たくましい。今の石山なら、弱肉強食の世界でも生き延びていくのではないか。石山の目には、そう思わせるだけの生命力が宿っていた。

編集部おすすめ