語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第24回】大八木淳史
(伏見工高→同志社大→神戸製鋼)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。

だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載24回目は、1970年代から1990年代にかけて日本ラグビー界の主役のひとりだったLO大八木淳史(おおやぎ・あつし)を紹介する。身長190cm、体重105kgの体躯を活かして伏見工業高(現・京都工学院)の花園初出場に寄与すると、同志社大学では3連覇、神戸製鋼ではV7など数々のタイトル奪取。日本代表でもワールドカップに2大会出場したレジェンドLOだ。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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「スクール☆ウォーズ」のモデル・大八木淳史 4度の学生王者と...の画像はこちら >>
 外国人と比べても負けない体つきとフィジカル、両サイドを刈り上げた髪型、さらにユニークで明るいキャラクターも相まって、多くのラグビーファンに愛された選手だった。

 大八木淳史──。

 彼の名前を聞いて真っ先に思い出されるのは、京都・伏見工業が舞台となったテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」に登場するメインキャストのモデルのひとりだったことだろう。それくらい、大八木はキャラの立った存在感のあるラガーマンだった。

 高校に入るまで、大八木はラグビーと接点のない環境で育った。小学校時代は病気がちで、兄の影響で始めたサッカーを中学でも続けていた。ポジションはリベロで、中学3年生で身長180cmを超えていたという。ファッションやデザインにも興味があり、父が建築関係の仕事をしていた関係で、建築学科のある伏見工を受験した。

 しかし、そこで運命が決まる。

【同志社大の歴史を築いた名LO】

 その入試当日に、伏見工業ラグビー部監督・山口良治(現・総監督)との出会いが待っていた。校門に立っていた山口監督にいきなり腕をつかまれて、「ラグビーやらないか? 俺と一緒にラグビーやったら、日本を代表する選手になれる」と誘われたという。まるでドラマのようだ。

 その山口監督の言葉に、大八木は「ワクワク、ドキドキ」した。即答で「そのつもりです」と返し、入学式の前からラグビー部の練習に参加したというのだ。

 その1年後、盟友となる平尾誠二がラグビー部に入部し、伏見工は強豪の階段を上り始める。大八木が高校3年時には、予選決勝で花園高を55-0で下して花園初出場を果たす。本大会の準々決勝で國學院久我山に負けたが、翌年に全国制覇するチームの礎(いしずえ)を築いた。

 大八木は高校時代、山口監督から多くのことを学んだという。ラグビー選手の前に「人としてどうあるべきか」や、周囲の支えがあってこそ成長できていることを感謝する「おかげさまの精神」など、大八木の人格はこの多感な時期に形成された。正しい道に導いてくれた山口監督には、今でも「恩返ししてもしきれない」と語っている。

 1983年のテストマッチでは、その「おかげさまの精神」がよく体現されたシーンがある。

当時最強国のひとつとして名高かったウェールズ代表と対戦し、アウェーにもかかわらず24-29と善戦した試合だ。

 18-29でリードされていた後半、日本は相手陣奥でチャンスを掴み、ショートラインアウトから大八木が突進する。ウェールズはすかさず体を張ってプレーを止めるも、大八木はそれに耐え、走り込んできたHO藤田剛に優しくパスを通してトライを演出した。「誰かのために」という思いから生まれたプレーは、まさに「おかげさまの精神」を象徴していた。

 高校2年から高校日本代表に選ばれ「期待の大型LO」として注目された大八木のもとには、関東の強豪大学がこぞってスカウトに訪れた。しかし、彼は関西ラグビー界の名将・岡仁詩監督に誘われて同志社大に進学する。

【引退後もラグビーの普及に貢献】

 同志社での大八木は、優勝請負人として数々のタイトル獲得に貢献することになる。ルーキーイヤーの1980年度に同校初の大学日本一となり、1982年度から前人未踏の大学選手権3連覇を成し遂げるなど、留学による在学5年間で4度の大学日本一に輝いた。

 大学ラグビーで抜きん出た実力を示した大八木は、「腕試しをしたかった」という理由でニュージーランドのカンタベリー大に留学。カンタベリー州代表にも選ばれる。その後、同志社大で主将を務めていた平尾に「日本に戻ってきてほしい」と頼まれて帰国することになり、自身4度目の大学日本一を手にした。

 大学王者として挑んだ4度の日本選手権の相手となる社会人チームは、すべて新日鐵釜石だ。

4度目の対戦は「同志社大が勝てるのでは」という下馬評も多く、大八木も「勝つ自信があった」という。

 しかし、この決勝戦が引退試合となった新日鐡釜石のSO松尾雄治が足のケガを抱えながら意地を見せ、同志社大は17-31で敗戦。新日鐵釜石はV7を達成し、大八木は涙を飲んだ。

 大学卒業後、大八木は関西でのプレーを希望し、神戸製鋼に入部する。すると今度は大八木が「不動のLO」として大学生チームの前に立ちはだかった。1988年度から大東文化大、早稲田大、明治大、法政大を退け、見事に日本選手権V7を達成したというわけだ。

 日本代表では30キャップを数え、1987年と1991年のラグビーワールドカップに出場。スコットランドから歴史的白星を挙げた試合(1989年)や、ワールドカップ初勝利のジンバブエ戦(1991年)も経験している。

 1997年にブーツを脱ぐと、引退後は明るいキャラクターを生かしてテレビやラジオで活躍。メディアに積極的に出演してラグビーの普及に務めている。また、同志社大の大学院に通って見識を広め、高校や大学で青少年育成にも取り組んでいる。引退しても大八木はフル回転だ。

 現在64歳。15歳で山口監督に出会い、運命に導かれるように楕円球を手にした大八木は、半世紀経った今もラグビーと向き合っている。

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