■『今こそ女子プロレス!』vol.28
DASH・チサコ 前編
"女子プロレスを見る女"として、私はリングに立つ彼女たちの何を見ているのだろうか。自分と同じ性であるがゆえに、彼女たちの痛みや迷いに共感する瞬間がある。
凶器が飛び交うハードコアを前にすると、その感情はさらに複雑になる。なぜ、ここまでして闘うのか――。パイプ椅子が鈍く鳴り、テーブルが砕け、時に血が滲む。それでもなお、そこに美しさを見出してしまうのだ。
その"美しさ"を、極限まで凝縮したような試合がある。2023年11月5日、後楽園ホール。センダイガールズプロレスリングのリングに、黒いパイプ椅子を手にしたDASH・チサコが立っていた。身長151cmの小柄な体に、研ぎ澄まされたスピードと技、全身で受けきる強さ。だが、この日、何より衝撃だったのは、対戦相手のアジャコングが、いつも以上に恐ろしく、そして強く見えたことだった。
大会後、興奮のままにプロレスリングBASARAが運営するバー『クラッチ』へ向かった。そこで会った木髙イサミに「アジャ選手って、あんなに強かったんですね」と話すと、彼は迷いなく答えた。
その言葉の意味を、チサコ自身はこう語る。
「こういう技を出したいとか、自分を強く見せたいとか、もうあんまりないですね。そういう試合になると、絶対つまらないんですよ。試合のテーマは1個か2個で、あとは会場の空気やお客さんの反応によって変えています。やっぱりお客さんがすべてですね」
――DASH・チサコ。その歴史と美学に迫った。
【あのスポットライトのなかに立ってみたい】
DASH・チサコは1988年、宮城県仙台市に生まれた。父と母、そして、ひとつ下の妹・幸子。幼稚園から高校、そしてプロレスまで同じ道を歩んだ姉妹は、仲がよく、互いの理解者だった。
チサコは子どもの頃から好き嫌いがはっきりしていた。「みんなと同じ」がどうにも性に合わない。
中学に入ると、J-ROCKにのめり込み、B-DASHや19に憧れてギターを始めた。友人とバンドを組み、ギターボーカルを担当。将来は音楽の道へ進みたいと考え、仙台大学附属明成高校の総合コースへ。夢を持つ仲間と過ごす毎日は、刺激に満ちていた。
高校1年のある夜、深夜放送の新日本プロレスを観て興味を持つ。妹と仙台大会を観戦に行き、入場シーンに釘づけになった。
「入場曲、パフォーマンス、コスチューム、お客さんとの一体感......ライブの感覚に近いと思ったんです。だからこそ惹かれたのかもしれません」
当時の新日本は、新闘魂三銃士(棚橋弘至、中邑真輔、柴田勝頼)の時代。
「顔面キックとかストンピングは、柴田さんの影響ですね。川田(利明)さんがブチ切れる瞬間も好きで。見ていてスカッとするし、『うわ、キレた!』っていうわかりやすさがある。自分もそういうスタイルだと思います」
やがて"デスマッチのカリスマ"葛西純の存在を知る。音楽、スタイル、表現――すべてが自分と波長の合うものだった。彼の試合は想像を超える過酷さで、それでも抗えない魅力に満ちていた。自分も、あのスポットライトのなかに立ってみたいと思った。

【何度も口にしかけて飲み込んだ「やめたい」という言葉】
高2のある日、バイト先のピザ屋に置かれていたフリーペーパーが目に留まった。そこには、センダイガールズプロレスリング(以下、仙女)旗揚げに伴う新人募集の広告が載っていた。
ページを破り取り、家に持ち帰って母に見せると、猛反対された。
運動経験がなく、体力テストは惨敗。それでも最後の自己PRで、実家から持参したピンクのラジカセを取り出し、当時流行していたパラパラを踊ってみせた。その突き抜けた一発芸に、里村明衣子と社長の新崎人生は目を見張った。
オーディションに集まったのは、たったの3人(チサコ、奥田朱理、金子友里恵=悲恋)。結果は全員合格だった。
当初は高校に通いながらレスラーになるつもりだったが、里村からは「それでは旗揚げ戦のデビューに間に合わない」と告げられる。迷った末、チサコは中退を決意する。どうしても仙女の1期生としてデビューしたかった。奥田や悲恋の後輩になることだけは避けたかった。
この頃、両親が離婚。チサコは母を心配しつつも、仙女寮に入った。
今どきのプロレスラーは、1日2、3時間の練習で終わることも多い。しかし、チサコが入門した当時はまるで別世界だった。
朝起きるとすぐ道場に行き、まずはランニング。汗をかいたまま道場の掃除を済ませ、午前10時から練習が始まる。正午までは、延々とダッシュ、腕立て伏せ、スクワットなどの基礎体力メニュー。2時間の休憩を挟んで、14時から18時までリング練習。先輩が帰るまで、後輩は帰れない。寮に戻れば食事当番と掃除当番が待っている。
「道場に行くだけで、拒否反応で気持ちが悪くなりました。道場の近くに線路があって、『今日は轢かれよう』と思うんですけど、怖くて飛び込めなかった。

さらに精神を削ったのは、テレビ局の密着取材だ。ある報道番組のスタッフ2人が寮近くに部屋を借り、半年もの間、ほぼ四六時中、カメラを回し続けた。
「練習中の苦しい表情はもちろん、休憩中の気の抜けた顔まで全部撮られました。普通に部屋に入ってきて、寝顔まで撮られたんです。あれでメディア恐怖症になりましたね」
肉体的な疲労と、常にカメラに見張られているような圧迫感。その中で、「やめたい」という言葉を何度も口にしかけては、飲み込んだ。練習開始から2カ月後、妹の幸子も仙女に入門。よき理解者である幸子と共に、旗揚げ戦までの日々を耐え抜いた。
【海外進出を目前に、「十文字姉妹」解散】
2006年7月9日、仙台サンプラザでの仙女の旗揚げ戦。チサコのデビュー戦の相手は、ダイナマイト・関西だった。持ち技はドロップキック、ボディプレス、ウラカン・ラナ。しかしゴングが鳴っても体が動かず、技を出す間もなく右ハイキック一発、開始数分でTKO負け。関西に担がれ退場した。
当時の仙女は、浜田文子、アジャコング、カルロス天野ら"外敵"を迎え撃つ方針。デビュー間もないチサコも試練マッチが続いた。
「同期は東京でいろんな人たちと試合しているのに、自分たちは強豪ばかりとやらされる。いつまでベテランの選手たちに潰され続けなきゃいけないのか......。息が詰まる思いがしました」
だが、この下積みが力になった。妹・幸子と「金成姉妹」(のちに「十文字姉妹」に改名)を結成し、他団体からのオファーも増加。海外進出の夢も現実味を帯びた。
そんな矢先、2011年3月11日。東日本大震災が仙女の本拠地・宮城を襲う。自宅は半壊し、車中泊の日々。避難先の祖母宅に最初に現れたのは、社長の新崎人生だった。その顔を見て、涙が出た。
被災地の現実は厳しかった。スポンサーは離れ、仲間は流出。団体存続の危機に、チサコは言いきった。「仙女がなくなるなら、自分はプロレスをやめます」――。結果、仙女は里村が社長になり、継続することになる。6月の石巻大会では、観客から「生きててよかった」と声をかけられた。その言葉は今も胸に残っている。
震災後、十文字姉妹の活動は加速。スターダムとのライバル闘争を経て、2013年末にはJWPタッグ二冠を獲得。しかし2015年8月、幸子が突然の"寿引退"を表明。女子タッグ史上初の四冠王として海外進出を目前にしていたところで、チサコは猛反対した。
「大ゲンカしました。話しましたね、たくさん。今でも納得してないんですよ。『絶対に海外行けた』って思いますし、周囲からも『もったいなかったね』って、いまだに言われます。でも、今だったら結婚してもプロレスを続けることができるけど、当時はまだ難しい部分もあったのかな」
絶望の淵で、チサコはひとりの先輩を訪ねる。長身スレンダーの体躯に、長い髪を背に流し、静かな笑みを浮かべる――"ハードコア・クイーン"KAORUだった。
(後編:アジャコングから「お前、バカだろ」 ハードコア・クイーンことDASH・チサコは「みんながまだ行ったことのないところに行きたい」>>)
【プロフィール】
■DASH・チサコ(だっしゅ・ちさこ)
1988年8月24日、宮城県仙台市生まれ。2006年7月9日、センダイガールズプロレスリング旗揚げ戦にて、対ダイナマイト・関西戦でデビュー。2015年、妹・仙台幸子とのタッグ「十文字姉妹」で4冠を獲得。2017年12月17日、PURE-J認定無差別級王座を戴冠。2019年3月21日、女性初のKO-D6人タッグ王者となる(パートナーは里村明衣子&橋本千紘)。2024年11月17日、岩田美香を破り、センダイガールズワールドシングル王座を初戴冠。「ハードコア・クイーン」と呼ばれる。151cm、56kg。X:@dashchisako