セルジオ越後の「新・サッカー一蹴両断」(15)

「メキシコ五輪得点王」の釜本邦茂を知らずに来日したセルジオ越...の画像はこちら >>

 日本サッカー史上最高のストライカー、釜本邦茂氏が逝去した。享年81。

現役時代に何度も対戦経験があり、1984年に行なわれた釜本氏の引退試合では、来日したペレの通訳を担当。1歳違いで、お互いの引退後も親交のあったセルジオ越後氏がその死を悼む。

【一緒のチームでプレーしたかった】

 釜本さんは、日本のペレ。日本サッカーの神様みたいな人だ。

 僕が日本に来たのは1972年で、釜本さんは1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得し、自らも得点王を獲得するなど、すでに競技の枠を超えたスーパースターだった。でも、当時の僕はひとつ年上の彼のことを全然知らなかったんだ。何しろ昔のブラジルはワールドカップにしか興味がない国だったからね。

 でも、実際に日本リーグの試合で対戦して驚いた。テクニックはもちろんだけど、とにかくパワフル。当時の日本人選手にしては背が高くて(公称179㎝)、ゴツゴツと体に厚みがあって、太ももも本当に太かった。

 ペナルティエリア内に入ると、相手をガチっとブロックしてシュートまでもっていく。キック力もある。ジャンプ力もあってヘディングも強い。

そうやってボコボコと点を取るんだから。日本で一番の選手と聞いていたけど、実際に対戦して、すぐに納得したよ。本当にバケモノだった。僕のいたチームで釜本さんをマークする役割の選手が、「どうやって止めるんだ? 絶対に決められるよ」と試合前に怖がっていたくらいだ。

 昔のプロ野球で、若いピッチャーが長嶋茂雄さんと対戦する際、「何を投げても打たれるよ」と縮こまっていたと聞くけど、同じような感じじゃないかな。

 釜本さんが所属していたヤンマーには僕と同じ日系ブラジル人のネルソン吉村がいて(※のちに日本国籍を取得した吉村大志郎)、彼は釜本さんへのアシスト役として知られ、日本リーグのアシスト王に輝いたこともある。でも、僕に言わせれば、同じチームに釜本さんがいるなんてずるい(笑)。いいクロスを上げれば、ほとんど全部決めてくれるんだから。

 実際、僕は吉村に冗談でこう言ったんだよ。「君は釜本さんにパスを出しているからアシスト王になれた。僕は釜本さんじゃないFWにパスを出しているからアシスト王になれない。僕も釜本さんにパスを出せればアシスト王になれた」って。

吉村は笑っていたけど、そのくらい釜本さんはシュートがうまかった。同じチームでプレーしていたらどうなっていたのかなと、いまでも思うよ。

 実は一度だけ、国立競技場で行なわれたエキシビジョンマッチで一緒にプレーしたことがあって、公式戦じゃないのに「俺に上げろ」「俺に出せ」と要求していて、ゴールへの執着心を感じたね。根っからのストライカーだ。あと、釜本さんがやっていたサッカー教室を観に行ったこともあるんだけど、そのほとんどがシュート練習だったことも覚えている。

 釜本さんとは現役時代にはほとんど話をしたことがなく、引退後には一緒に仕事をさせてもらう機会があって、以前にこの連載を掲載していた『週刊プレイボーイ』でも対談をやったりしたけど、特別に親しい関係というわけではなかった。それでも、たまに会うと、日本サッカーの問題について建前ではなく本音で語り合えたし、尊敬できる先輩だった。

【海外のリーグでプレーする姿を見たかった】

 僕も長く日本のサッカーを見ているけど、釜本さんと同じかそれに近いレベルの、いわゆる本格派ストライカーはまだいないね。似たタイプの選手を挙げるなら、ゴン中山(雅史)かな。テクニックも大事だけど、とにかくペナルティエリア内での強さと決定力の高さという点で共通している。

 もちろん、昔といまとでは、サッカー自体が大きく変わっていて、FWに求められるプレーや能力も異なる。フィジカルもスキルも大きく進化している。

だから、釜本さんが現代のサッカーで同じような活躍ができるかどうかはわからないし、また、いまの日本人FWがダメだというつもりもない。ただ、それでもやはり「日本サッカー史上最高のストライカーは誰か?」と聞かれたら、僕は釜本さんと即答する。

 "たられば"を言うなら、釜本さんが海外リーグやワールドカップの舞台でプレーする姿を見たかった。メキシコ五輪後には西ドイツ(当時)のブンデスリーガ行きの話があったけど、病気の影響で流れてしまった。

 当時、西ドイツでは釜本さんとタイプの似ているゲルト・ミュラーが大活躍していたから、釜本さんもよいクロスさえくれば、西ドイツでも活躍できたと思う。そして、それを見た日本サッカー界はもっと早く世界に目を向けるようになっていたかもしれない。そう考えると、もったいなかった。

 1984年に国立競技場で行なわれた釜本さんの引退試合に、わざわざペレとヴォルフガング・オベラートが来日したのは有名だ。また、1977年の「ペレ・サヨナラゲーム・イン・ジャパン」には釜本さんが参加している。

 実はその二度とも、僕はペレの通訳を務めているんだ。ペレと釜本さんは言葉も通じないし、そもそも接点も少なかったけど、ペレが釜本さんに親しみや尊敬の気持ちを持っていたのは間違いないと思う。以前よく試合を行なっていた「世界選抜チーム」に、アジアを代表する選手として釜本さんが何度か参加していたので、存在を知っていたそうだ。

要するに「アジア最高の選手」と認めていた。

 釜本さんは亡くなる前のここ数年、体の具合がよくなかったこともあり、表舞台に出てくる機会は少なかった。でも、1歳違いの僕としては、もっともっと日本のサッカーのためにがんばってほしかった。ただただ寂しいよ。

 心からご冥福をお祈りします。

(16)>>ワールドカップ前のシーズンが開幕 セルジオ越後が期待する欧州組、心配する欧州組の名前

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