Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第7回】盧廷潤/ノ・ジュンユン
(サンフレッチェ広島、セレッソ大阪、アビスパ福岡)

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第7回は1993年から2002年にかけてサンフレッチェ広島、セレッソ大阪、アビスパ福岡に在籍した盧延潤(ノ・ジュンユン)を紹介する。韓国人Jリーガー第1号の彼は、人知れず葛藤と戦っていた──。

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【Jリーグ】「日本のスパイ」と呼ばれて...韓国人Jリーガー...の画像はこちら >>
 1993年のJリーグ開幕は、東アジアのライバル関係を劇的に変化させた。「永遠のライバル」韓国からJリーグ入りする選手が登場するのである。

 その第1号が、盧延潤だった。サンフレッチェ広島の一員として、1993年5月の記念すべき開幕戦に出場している。

 日本のサッカー関係者には、Jリーグ開幕前から知られる存在だった。1990年の北京アジア大会に、高麗大学の先輩の洪明甫(ホン・ミョンボ)、同学年の徐正源(ソ・ジョンウォン)とともに出場している。

 1992年1月に開催されたバルセロナ五輪アジア最終予選では主力を担い、日本を1-0で破る勝利に貢献した。アジア予選を突破した韓国はバルセロナ五輪に出場し、盧も世界の舞台でプレーしている。

 日本に立ちはだかった男が、日本でプレーする。

「武器なき戦争」とも言われる韓日戦を争うライバルへ、お金を稼ぎに行く。周囲がアレルギー反応を起こすのは必然だっただろう。

「韓国のプロサッカーは人気が低下していて、選手は金銭的に恵まれていない。トッププレーヤーが自分の可能性を求めて海外へ行くのは、当然のことだと思う......という僕の言い分は、率直に言って理解されませんでしたね。

 日本へ行くと決まった僕は、『売国奴』と呼ばれました。『韓国を捨てて、何で日本へ行くんだ』と、マスコミから厳しく批判されました。日本で失敗したら、もう帰るところがなかった」

【「剛」のイメージから変化】

 悲壮感のそばには、責任感もあった。

「もし僕が日本で失敗したら、Jリーグのチームは『韓国人選手を取るのはやめよう』と考えるでしょう。これは大変なプレッシャーです」

 だからなのだろうか、ピッチ上での彼はいつでも闘争心剥き出しなのだ。

 100メートルを11秒台で走るスピードを持ち、「止める、蹴る」も一定以上の水準にあったが、記憶に残る彼は必死の形相でタッチライン際を駆け上がり、DFをぶっちぎっている。「韓国=フィジカルが強い」というイメージを、忠実なまでに表現していた。

 彼自身が多くのものを背負っていたことはともかく、その存在はスチュアート・バクスターが指揮する広島のサッカーにピタリとハマった。ターゲットマンの高木琢也、突破力と得点力を備えるパベル・チェルニーとのトライアングルは、試合を重ねるごとに脅威度を高めていった。

1994年にイワン・ハシェックが合流すると、前線の破壊力はいよいよリーグ屈指となる。

 1994年ファーストステージ開幕節の名古屋グランパス戦で、盧はペナルティエリア内右からGKの頭上を破る左足ループを決める。チームを勢いに乗せるシーズンのオープニングゴールだった。

 4月に行なわれた鹿島アントラーズとのアウェーゲームでは、1点リードの終盤にペナルティエリア内でDFを翻弄し、強烈な右足シュートを浴びせて勝利を決定づけた。来日前は直線的で「剛」のイメージが強かったプレースタイルは、次第に「硬軟自在」となっていく。

 1994年は6月中旬からアメリカワールドカップが開催されるため、韓国代表に選出された盧は5月14日の鹿島戦を最後にチームを離れなければならなかった。その試合で2ゴールを叩き出し勝利を手繰り寄せる。助っ人外国人に求められる勝負強さも、彼の魅力となっていった。

 広島では1997年までプレーし、1998年からオランダ・エールディビジのNECブレダへ新天地を求めた。在籍中には1998年のフランスワールドカップに出場し、1999年のJリーグ開幕とともにセレッソ大阪の一員となる。桜のユニフォームには2001年途中まで袖を通し、アビスパ福岡へ移籍する。福岡がJ2へ降格した2002年も残留したが、チームのJ1復帰を見届けずに同年かぎりで日本を離れた。

【盧に向けられた強い風当たり】

 個人的に触れたいのは、1993年のアメリカワールドカップ・アジア最終予選である。

 1986年から2大会連続でワールドカップ出場権を勝ち取っていた韓国代表は、最終予選突破を目指して国内で継続的に合宿を繰り返していた。代表選手のほぼ全員が国内のクラブで所属しており、海外組は金鋳城(キム・ジュソン/当時27歳)と盧だけだった。

 ドイツ・ブンデスリーガのボーフム所属の金は、1986年のメキシコワールドカップ、1988年のソウル五輪、1990年のイタリアワールドカップに出場し、アジア年間最優秀選手賞を3度も受賞していた。それに対して、1993年当時の盧は22歳である。

 最終予選でライバルとなる日本でプレーし、合宿に定期的に参加できない彼への風当たりは強かった。日本へ情報を流しているスパイ扱いまでされていると知ったのは、最終予選が終わってからである。

 サッカー専門誌の記者として現地ドーハで取材をしていた僕は、盧が置かれている状況をまったく把握できていなかった。広島入りから熱心に日本語を学んでいた盧は、日本人メディアに呼び止められると足を止めていた。

 日本のメディアに「ノーくん」と呼ばれ、質問に答えるやり取りは、韓国代表の年上のチームメイトに、韓国のメディアに、どんなふうに映ったのだろう。時には笑顔を浮かべた盧の誠実さが、スパイ扱いされる一因となったとしたら。自分の未熟さや無知を、責めずにはいられなかった。

 J1での通算出場ランキング(2025年8月22日時点)を見ると、韓国人JリーガーではGK金鎮鉉(キム・ジンヒョン/セレッソ大阪)が400試合を超えており、GK鄭成龍(チョン・ソンリョン/川崎フロンターレ)が271試合で続く。

J1の複数クラブに在籍したDF黄錫鎬(ファン・ソッコ)が240試合、今季はシーズン途中から清水エスパルスでプレーするDF金眠泰(キム・ミンテ)が219試合、そして盧が215試合である。

【同胞たちの希望の轍となった】

 金鎮鉉は2009年に、黄錫鎬は2012年に、鄭成龍と金眠泰は2015年以降に来日している。すでに多くの韓国人選手がJリーグでプレーしており、Jリーグへ行くことへの拒絶反応はなくなっていた。彼らを受け入れる日本側の環境も、十分に整っている。

 1999年にC大阪へ戻ってきた盧が、こんな話をしている。自分の運命を呪うわけでなく、誰かを羨(うらや)むわけでもなく、澄んだ瞳で。

「僕が最初に日本へ行った時とは違って、今来ている人たちはみんな『愛国者』と呼ばれます。みんな幸せだなって思いますよ」

 2025年のJリーグでも、多くの韓国人選手がプレーしている。日本でプロとしてのキャリアをスタートさせる大卒選手もいる。

 盧が苦しみながら刻んだ足跡は、同胞たちの希望の轍(わだち)となったのだ。

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