甲子園優勝から41年~取手二の背番号9の控え左腕が語る「奇跡の夏」(後編)

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 1984年夏、取手二(茨城)の全国制覇メンバーである柏葉勝己は、背番号9の控え左腕として、甲子園決勝の大舞台で一世一代のワンポイントリリーフを披露した。

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【夏の甲子園で2度の先発登板】

 茨城大会では右肩痛の影響で本調子ではないエース石田文樹(元大洋)の負担を減らすため、先発、リリーフ問わずフル回転。決勝の竜ヶ崎一戦では2番手で登板して4回を1失点に抑え、3年ぶり4度目の甲子園出場に貢献した。

「茨城決勝の前日、主将の吉田剛(元近鉄など)から『明日勝ったら胴上げしてやるよ』と言われて、それが現実になったんです。木内幸男監督、吉田のあとに自分が本当に胴上げされて、あの時は本当にうれしかったですね」
 
 好調ぶりを買われ、夏の甲子園初戦となる箕島(和歌山)との2回戦前日、木内から先発の大役を言い渡される。ただ、相手は春夏連覇を果たした1979年以来の全国制覇を狙う強豪校。「先発を言われた時は心臓がバクバクしている感じがありました」と振り返る。

 その緊張が投球感覚を微妙に狂わせる。初回に暴投で先制点を許すなど、1回持たず降板。2試合目の登板となった準決勝の鎮西(熊本)戦でも先発で初回に先制され、3回途中から石田へマウンドを譲った。

 いずれも逆転勝ちで決勝まで進出したが、最後の相手はあの桑田真澄(元巨人など)、清原和博(元西武など)の「KKコンビ」を擁するPL学園(大阪)。柏葉はベンチスタートで、木内からは守備固めでの出番を伝えられていた。

 それでも控え投手として1回おきにブルペンで肩をつくるルーティンは欠かさなかった。ただ、初回に2点を先制するなど、7回まで4対1とリードしたことで、「勝てちゃうのかな」と気の緩みが生じ、5回以降はブルペンに入らず、ベンチで試合の行方を見守った。

夏の甲子園決勝で強豪PLと対戦 取手二の控え左腕・柏葉勝己が振り返る一世一代のワンポイントリリーフ
1984年夏、決勝でPL学園を下し初優勝を成し遂げた取手二ナイン photo by Okazawa Katsuro

【キャッチボールもせずにマウンドへ】

 しかし1点リードで迎えた9回、石田が先頭の清水哲に同点本塁打を浴びたことで、戦況がガラリと変わった。相手は「逆転のPL」の異名を誇る王者。

木内の指示もあり、急いで肩をつくろうとしたが、予想外のことが起きた。

「控え捕手の桜井(繁)に『行くよ』と声をかけたら、『ミットがどっかにいっちゃった』と探しているんです。そうこうしている間に、石田が2番の松本(康宏)に死球を当ててしまい、そこで行けと言われ......。結局キャッチボールもできないままマウンドに上がりました」

 マウンド上での投球練習が勝負だった。柏葉の持ち味は変幻自在の幻惑投法。サイドやアンダー、クイックを織り交ぜながら、持ち球を消費していく。勢いづくPLの応援も甲子園の大歓声も聞こえないぐらい、肩をつくること一点に集中していた。

「箕島戦も鎮西戦も、前日に先発を伝えられたので、緊張していたと思うんですよ。でも、決勝はいきなりマウンドに行けと言われて、緊張する暇もなかったのが結果的によかったんじゃないでしょうか」

 無死一塁。3番・鈴木英之は左打席でバントの構えをしていた。1ボールからの2球目。アンダー気味に投じたスライダーをバントさせると、打球は転がらず、本塁前で止まった。

捕手の中島彰一が矢のような送球で二塁封殺。試合前から降り続いた雨の影響で、本塁前に大量に入れられた砂が、柏葉を、取手ナインを救った。

「鈴木のバントがうますぎたんだと思います。打球が死んで、なおかつグラウンドがぬかるんでいるところで止まりました。中島のあんなスローイングも初めて見ました(笑)。あの夏、初戦の箕島戦も雨で、決勝も台風の影響から33分遅れで始まりました。取手二にとって、雨で始まって雨で終わった大会でした」

 つづく4番・清原の場面。6月の招待試合で2安打を許した借りを返したい気持ちもあったが、ライトの守備に就いていた石田と交代した。その石田が清原を三振、5番・桑田をサードゴロに仕留めピンチ脱出。そして延長10回、中島が3ランを放つなど4点を奪い、追いすがるPLにとどめを刺した。

夏の甲子園決勝で強豪PLと対戦 取手二の控え左腕・柏葉勝己が振り返る一世一代のワンポイントリリーフ
現在は豊洲市場で働く柏葉勝己さん photo by Uchida Katsuharu

【監督の手の平の上で踊らされていた】

 野球に「たられば」は禁物だが、もしそのまま石田が続投していれば、PLの勢いに飲まれてサヨナラ負けを喫していたかもしれない。

「交代の時は『やっぱり4番の清原には通用しねぇだろうな』と、無愛想にボールを誰かにぶん投げてライトへいきました。

石田とすれ違いましたが、表情はそんなに変わらなかったです。木内さんは『石田がライトで頭を冷やして、笑顔でマウンドに帰ってきたんだ』って言っていましたが、勝てば何とでも言えますよ(笑)」

 ただ、あのワンポイントにこそ、木内マジックの神髄が凝縮されていたことは間違いない。柏葉は「選手をよく見ていましたよね」と、「弱者の兵法」をモットーとした恩師の凄さを振り返る。

「2年春の選抜はレギュラーの背番号と守備位置がほとんど合っていなかったんじゃないでしょうか。こういう風に選手を動かしたら、どういう戦略が立てられるかというのは常に考えていたと思います。お釈迦様じゃないですけど、我々は木内さんの手の平の上で踊らされていましたね」

 あの夏から41年が経った。柏葉は高校卒業後、野球からは離れ、水産物の卸売をおもに行なう中央魚類株式会社に就職。40年に渡り、新鮮な魚や魚介類を全国に供給してきた。

「簡単に言うと、お魚を買ってお魚を売る仕事です。以前は競りもやっていましたね。豊洲市場という『市場の甲子園』で頑張っています」

 今春。創立100周年を迎えた母校に、県大会と甲子園の優勝メダルを寄贈した。

全国制覇以来遠ざかる甲子園を目指す後輩たちが、金色の輝きを見て少しでも刺激を受けてくれたら本望だ。

「家に飾っているわけではなかったので、学校にあったほうがいいだろうなと思い、寄贈しました。当時はもちろん、甲子園に行きたい、優勝したいという気持ちはありましたが、あそこまで行けたというのは勢いがあったからだと思うんですよね。今でも同年代の人には当時のことを聞かれることが多いです。取手二で野球をやらせていただいたからこそ、いろいろな経験をさせてもらいましたし、今の自分があると思っています」

 柏葉が、そして茨城の公立校が起こした奇跡は、いかに時が移ろうとも、色あせることはない。

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