語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第25回】梶原宏之
(日川高→筑波大→東芝府中→勝沼クラブ)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。
連載25回目は1990年代に活躍したFL梶原宏之(かじはら・ひろゆき)を紹介する。187cm・96kgの体躯を活かし、低く這うようなハードタックルで日本代表31キャップを積み重ねた。国際舞台で見せた高いフィジカルと運動能力は、対戦した各国のメディアもこぞって称賛した。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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歴代の名だたる日本代表メンバーのなかで「ハードタックラー」と言えば、誰を思い浮かべるか──。世代を超えて多くのラグビーファンが挙げたくなる選手のひとりに「梶原宏之」の名は入ってくるのではないだろうか。その印象を強くした試合のひとつが、1989年5月のスコットランド戦であるのは間違いない。梶原がファーストキャップを獲得したテストマッチだ。
「持ち味であるタックルを決めてくれ」
名将・宿澤広朗監督から電話口でそう言われた時、受話器を持った梶原の手は震えたという。当時、梶原は筑波大から東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)に入ったばかり。大学ではNo.8のポジションを務めていたが、宿澤監督はFLとして梶原を日本代表に抜擢した。
FL歴はたった3カ月。
「勇気を持って踏み込むのは、メンタルが大事」
大柄なスコットランド選手を前に怯むことなく、梶原は果敢にタックルを繰り返した。
そのハードなプレーに、東京・秩父宮に集まった25,000人強の観衆は目を奪われた。日本はホームの雰囲気も追い風にして試合の流れをつかみ、強豪スコットランドを相手に28-24で勝利。当時の世界トップ8から初めて勝利する大金星を挙げた。
【オールブラックスに真っ向勝負】
その試合で強烈なインパクトを残した梶原は、それから9年間、日本代表に欠かせぬFLとなった。1991年と1995年のワールドカップメンバーにも、主力のひとりとして選ばれる。
1991年大会では、ハードタックルを武器にアイルランド戦でトライ。記念すべきワールドカップ初勝利となったジンバブエ戦でも存在感を示した。しかし、梶原がワールドカップで最もインパクトを残したハードタックルは、1995年大会のニュージーランド戦だろう。
日本は開幕から2連敗を喫し、すでに予選プール敗退が決まっていた。一方、すでにトーナメント進出を決めているオールブラックスは、出場機会の少ないフレッシュなメンバーを揃えてきた。
のちに「ブルームフォンテーンの悪夢」とも呼ばれた試合は、前半を3-84で折り返すという一方的な展開となった。しかし後半、最後まであきらめる姿勢を見せない梶原がオールブラックスに一矢を報いる。
後半47分、中央でのスクラムからFB松田努が抜け出すと、その動きをフォローした梶原が左中間にトライを奪取。さらに後半65分、梶原が相手反則からクイックタップで攻め込むと、CTB吉田明が縦にゲインしたあとをサポートして再びトライ。梶原の奮闘がなければ、歴史的大敗の点差はもっと開いていたかもしれない。
スコットランド戦で見せた梶原のハードタックルは、生まれ故郷に由来する。山梨県勝沼町(現・甲州市)に生まれ、実家はぶどう農家。自然に囲まれた環境で足腰が鍛えられたという。
梶原は中学生まで野球をやっていたが、地元の先輩の勧めもあってラグビーの強豪・日川高から競技を始めた。「最初はタックルが怖かった。でも、監督に褒められて自信がついた」。
花園での活躍はすぐに関係者の目止まり、多くの大学から声をかけられたという。しかし「将来は教員、指導者となって、山梨に戻ってきたかった」という理由で筑波大に進学。のちに東芝府中や日本代表でチームメイトとなる同期のHO薫田真広とは、そこで知り合った。
【わずか5年で東芝府中を退社】
梶原と薫田のコンビは強烈だった。FWの中心として筑波大を引っ張り、大学3年時には早稲田大を相手に勝利まであと一歩(0-3で惜敗)と迫り、明治大には21-15で勝利。関東ラグビー対抗戦で2位、大学選手権ではベスト8に進出する原動力となった。
大学後の進路についても当然、多くのチームから誘われた。梶原は「自分に合っている」と感じた新日鐵釜石か東芝府中、どちらに行くか悩んだという。最終的には父のアドバイスもあり、郷里の山梨から近い東芝府中を選んだ。
東芝府中に在籍した時期(1989年~1994年)は、ちょうど神戸製鋼の7連覇と重なっており、日本一のタイトルを手にすることはできなかった。そして1994年、梶原は父の病気も理由のひとつに東芝府中を退社し、山梨に戻って高校教員となった。
当時27歳。日本のトップ選手が地元に帰って教員になったことは大きな驚きだった。
しかし、梶原は不撓不屈の精神で、ラグビーを疎かにしなかった。仕事が終わったあとにアマチュアチーム「勝沼クラブ」でトレーニングを重ね、代表選手としての地位を守り続けたのだ。
1995年のワールドカップから2年後、梶原は日本代表の一線から退く。その後は「子どもたちを強化・育成して、スポーツを通じた人間育成をしたい。自分の経験したことを子どもたちにも味わってもらいたい」と、一貫して指導者としての道を歩んでいる。
1997年には桂高ラグビー部の監督となり、初の花園出場に導いた。また、母校の日川高にも赴任して全国大会に出場するなど、山梨の高校ラガーマンを鍛え続けた。
2019年ワールドカップ日本大会ではアンバサダーを務め、山梨県教育委員会も歴任。現在、山梨学院大のラグビー部の監督として後進の指導にあたっている。
「ラグビーは『One for All, All for One』と言われるように、助け合いの精神が大事。
世界を知る梶原の活動は、間違いなくラグビー全体の底上げに貢献している。