学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざま部活動の楽しさや面白さは今も昔も変わらない。

この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、いまに生きていることを聞く──。部活やろうぜ!

連載:「部活やろうぜ!」
バレーボール】柳田将洋インタビュー後編(全2回)

男子バレーボール・柳田将洋が振り返る部活動の何気ない日常「間...の画像はこちら >>
 柳田将洋(東京グレートベアーズ)は、高校1年生で出場した全日本バレーボール高等学校選手権大会(春高バレー)でベスト8に入り、2年生の時には全国優勝を果たした。2年時は大会前から優勝候補に挙げられ、プレッシャーのかかるなかでの優勝だった。エースとしてチームを牽引した柳田は、自分でも知らず知らずのうちに重圧を感じていたと当時を振り返る。

当時のチームメイトには、日本代表の主戦セッターとしてパリ五輪に出場した関田誠大(サントリーサンバーズ大阪)もいた。そんな関田との思い出も多い高校時代について語った。

【優勝で変化した心情と身の回り】

――春高バレーで優勝したあと、大学から推薦の話が来たとのことですが、周囲が東洋高校を見る目も変わったのでは?

柳田将洋(以下、柳田) 1年でベスト8入りした時に注目されて、そのあと、メンバーもあまり変わらず、さらに一学年下にセッターの関田が入ってきて十分な補強ができました。ありがたいことに優勝候補の筆頭に挙げていただけるチームになりました。

 プレッシャーはゼロではなかったですね。もちろん、周囲の期待に応えられない時は応えられないし、ましてや全国大会なんてそう簡単に勝てるステージではない。僕自身は「やるだけやって結果がついてくればいいかな」くらいに思っていたのですが、いざ優勝してみたら内心ホッとしている自分がいて驚きました。「ああ、僕は優勝したかったんだなぁ」と気づきました。周囲の期待を裏切らないで済んだという気持ちは強かったです。

――優勝して生活は一変しませんでしたか?

柳田 いろいろな人に声をかけられることが増えました。高校の前に知らない人が来て待っていたり......。噂には聞いていましたけど「自分にも起こるんだ」と驚きましたし、怖いとも感じました。僕は陽気な性格ではないので、見知らぬ人が僕を知っていることを、まずは「怖い」と感じてしまう。当時は高校生でしたから余計に怖さを感じたのかもしれません。

――さきほど「関田選手の補強もあって」とおっしゃっていましたが、やはり当時からトップクラスのセッターだったのですね。

柳田 はい、小学校の時から有名でしたね。僕と関田は親同士が知り合いで、東洋に入ってくる前から顔見知りだったのですが、あの世代で頭ひとつ飛び抜けてうまい選手でした。

――関田選手は1歳年下ですが柳田選手のことを「マサ」と呼びますよね。上下関係は厳しくなかったのですか?

柳田 「タメ口の方がいろいろ話しやすくていいよね」と関田が入部してきた時に2人で話をして、そうなったのを覚えています。ほかの後輩たちもタメ語と敬語が入り混じっていました。2個下はさすがに敬語でしたが、1個下の後輩は「~でしょ」とかを普通に使っていました。

僕らの世代はそんな感じでゆるかったです。

【バレーボールで一生の友人】

――そんな部活動で今、思い返して「部活をやっていてよかったな」と感じることは?

柳田 よかったことはたくさんありますね。まずは人とつながるきっかけが作れたこと。今はマシになりましたが、高校生の時は特に人見知りが激しくて、クラスのなかですぐに友人グループを作れるような性格ではありませんでした。でも、バレーボールという共通した話題があれば、それをひとつのコミュニケーションツールにして人とつながれましたし、それが今では海を越えてまで広がっています。

 今でも高校時代の友人と集まる機会があるのですが、クラスメイトよりバレーボール部のOBと会うほうが圧倒的に多いです。「バレーボールが好きだから」と続けてきたことですが、こうして生涯付き合える友人を作ることができました。

――部活をしていたからこその、青春っぽい、エモーショナルな思い出はありますか?

柳田 学校の授業が終わって、体育館に向かっている時や、練習が始まるまでの時間......。ぐうたらしながら着替えをして、みんなで話したり、笑いあったりしたのはかけがえのない時間でした。間違いなく青春の一部だったと思っています。

 あと、関田と居残り練習をすることが多くて、その帰り道のことなどは時々思い出しますね。東洋高校の最寄り駅の前にハンバーガーショップがあるんですけど、そこに練習終わりに寄っていました。当時は学生なので、なけなしのお金で安いチーズバーガーを2つ買って、関田と2人で食べながら帰ることもありました。

 合宿も、いい思い出です。バレーボール部はVリーグに属している企業で一緒に練習させてもらうことが多くて、僕の学校は東レ(アローズ)さんの施設をお借りして寝泊まりしたんですが、学生合宿ならではの6人雑魚寝とか、畳の部屋とか......。ああいうのは今では味わえない楽しさですよね。みんなで「トランプしよう」ということになって、6人部屋なのに10人ぐらい集まったりとか。完全にキャパオーバーなのに(笑)。ゲームをしながら他愛もない話をして、大笑いして、あれは2度と味わえない貴重な体験だったと思います。

【春高バレーを3回経験した最初の世代】

――大学には推薦での進学を目指したとのことですが、とはいえ成績が伴わなければ推薦枠をもらえませんよね。部活と学業の両立も大変だったのではないですか?

柳田 東洋高校は成績が悪いと練習には出ずに補習を受ける決まりがあったんですが、それも部活らしいなって今は思います。部活に出るために、しっかり試験前には勉強しようと思えました。やはりエースが抜けるわけにいかないじゃないですか。そういう現実的なところも含めて今思えば青春ですよね。

――引退は寂しかったのでは?

柳田 春高バレーが最後の大会だったのですが、実はそれほど......(苦笑)。

そこで負けた瞬間に引退が決まりました。実は僕の代だけ特殊で、僕らのひとつ上の学年までは春高バレーは4月開催。3年生が引退したあとの、1、2年生のための大会でした。ところが僕が3年生の時に1月開催に変わって、初めて春高バレーを3度経験した世代なんです。

 3年生の最後の春高は3位。鎮西高校(熊本)に負けました。「やりきった」という感じで、寂しさは感じませんでしたね。もちろん負けてしまって残念だったのですが、すでに進路が決まっていたので「よし、ここから大学」「もう俺、大学生になるのかぁ」と思いながら帰った記憶があります。

 ただ、卒業式だけは少し感傷的になりましたね。式の最中、体育館で北畠(勝雄)監督の姿を見た時に急に部活でのいろんな場面を思い出して、「おそらくたくさん叱りたいことはあったのだろうけれど、我慢してくださっていたんだろうなぁ」と。胸が熱くなりました。思えば、ああしろ、こうしろと言われない指導だったからこそ自分たちで考える習慣が生まれましたし、自分たちで考え、行動することの大切さを学べたのだと思っています。

Profile
柳田将洋(やなぎだ・まさひろ)/1992年7月6日生まれ。東京都出身。186㎝。アウトサイドヒッター。2023年から東京グレートベアーズ所属。東洋高校では、春高バレーに1年生で出場してベスト8。2年時に優勝を飾り、3年時もベスト4と成績を残した。慶應義塾大に進学後、全日本メンバーには大学3年で初登録された。2015-16シーズンにはVプレミアリーグで全試合に出場し、最優秀新人賞を受賞。2017年のプロ転向後、ドイツ、ポーランドと海外でもプレー。日本代表としては、2018年からキャプテンを務めるなど、中心的存在として牽引。直近では2023年の杭州アジア大会代表で、銅メダル獲得に貢献した。

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