語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第26回】小野晃征
(クライストチャーチ高→福岡サニックス→サントリー→宗像サニックス)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。

だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載26回目は、身長170cmの司令塔SO小野晃征(おの・こうせい)を取り上げる。2015年ラグビーワールドカップで日本が南アフリカを撃破した「ブライトンの奇跡」から10年──。あの歴史的快挙に小野の存在は欠かせない。ラグビーの本場ニュージーランドで育った「逆輸入ラガーマン」の軌跡を振り返る。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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ラグビー日本代表に19歳で呼ばれた「無名の逸材」小野晃征 ニ...の画像はこちら >>
 小野晃征。愛称「コス」──。

 その名前と呼び名を、驚きとともに初めて聞いたのは、2007年の春だった。

 サニックスから当時19歳の入団発表があった時、多くの人が「誰?」と思ったはずだ。

 愛知県名古屋市生まれ。それがなぜ......サニックスとの縁は、ニュージーランドにあった。

 親の仕事によって1歳でニュージーランド・クライストチャーチに移住した小野は、6歳からタッチラグビーを始めた。

そこで楕円球の魅力を知ることになり、クライストチャーチボーイズ高校に入学する。多くのオールブラックスを輩出している名門で、神戸製鋼でも活躍したSOダン・カーターも同校の先輩だ。

 最高の環境でラグビーに向き合った小野は、各年代でカンタベリー州代表に選出。高校ではCTBとして1軍レギュラーを獲得し、全国優勝も経験する。「ONO」の名前は関係者の間でも知られるようになり、ついにはニュージーランドU19代表候補にも呼ばれることになった。

【カーワンHCからのラブコール】

 当時の小野は体育教師を目指し、高校卒業後はカンタベリー大学に通っていた。そして大学卒業後は「機会があれば日本でプレーも......」と思っていたという。そんな矢先、日本代表HC(ヘッドコーチ)に就任したばかりのジョン・カーワンが19歳の青年の存在に目をつける。

 元オールブラックスのレジェンドWTBは、母国ニュージーランドで活躍している「無名の逸材」にさっそく電話をかけた。

「日本代表スコッドの合宿に参加してほしい」

 その言葉が人生のターニングポイントとなり、小野は「来日」を決めた。その突然の誘いがあったからこそ、「プレースタイルが合っている」と感じたサニックスに入団することにした。

 2007年4月の韓国戦、カーワンHCはさっそく小野を抜擢する。20歳になったばかりの小野は初キャップを獲得し、その5カ月後にはワールドカップメンバーにも選ばれた。

そして初戦のオーストラリア戦に出場し、PG(ペナルティゴール)で得点も記録する。

 しかしワールドカップ後、カーワンHCに再び呼ばれることはなかった。その才能は認められていたものの、国際試合で代表チームを引っ張る経験値がまだ足らなかったからだ。

 小野はサニックスで技術を磨いた。SOやCTBとして強さを増し、ランニングラグビーの根幹を担っていく。その結果、2011年度のトップリーグではCTBとして初の「ベスト15」に選出されるまでに成長を遂げた。

 2011年ワールドカップには出場できなかった。しかし2012年、新たに就任したエディー・ジョーンズHCに声をかけられる。スキルが高く、判断力に長けて、ランのオプションもあり、タックルでも体を張れる──。高く評価したジョーンズHCは、小野をSOで重用し続ける。

 2012年11月、日本は敵地でルーマニアを34-23で下し、初めて欧州のテストマッチでヨーロッパのチームから金星を挙げる。さらに続くジョージア戦では、小野がロスタイムにDG(ドロップゴール)を決めて25-22で勝利。

代表での小野の存在感は、日に日に増していった。

【2015年「ブライトンの奇跡」】

 そして2015年、小野にとって2大会ぶり2度目のワールドカップ。チームの司令塔「10番」として臨む初戦の相手は、優勝候補の南アフリカだ。

 19歳で初めて日本代表スコッド入りした小野も、多くの経験を積んで28歳となった。相手が南アフリカであろうとも冷静にゲームをコントロールし、後半33分までピッチでチームを牽引する。

「エディーが思っているすべてのことが、自分の頭に入っていたと思います。自分とハル(立川理道)が理解していた。ランとパスでボールを動かすなか、とにかくスペースがあったらキックを蹴るプランでした」

 小野が巧みにキックで揺さぶったことによって、南アフリカが次第に焦っていったのは間違いない。34-32で歴史的勝利を飾った「ブライトンの奇跡」は、小野の司令塔としての真骨頂が見えた試合だった。

 小野は3戦目のサモア戦、4戦目のアメリカ戦でも10番を背負い、チームを勝利に導いた。勝ち点差で惜しくも決勝トーナメント進出は逃したものの、ワールドカップでの3勝は日本代表に大きな自信を与えただろう。

 ワールドカップから帰国後、小野はこう大会を振り返った。

「みんなでやってきたすばらしいラグビーを、世界に見せることができてうれしかった! 日本ラグビーが(海外から)甘く見られなくなりましたし、ラグビーを本気にやっている国だということを見せられた」

 国内リーグでは、2012年にサニックスから強豪サントリーに移籍した早々に頂点をつかんだ。

サモア代表トゥシ・ピシとSOの座を争いながら、トップリーグで初の日本一を経験。さらには日本選手権も制して2冠を達成し、2年連続でベスト15にも選ばれた。

 2016年6月のスコットランド戦を最後に、再び日本代表としてピッチに立つことはなかったが、サントリーでのプレーに集中して2016年度・2017年度もトップリーグ&日本選手権の2冠に貢献。特に2016年度は得点王にも輝くMVP級の活躍ぶりだった。

【いつかはジャパンの指揮官として】

 2020年、小野は再びサニックスに戻り、33歳になった翌年にブーツを脱いだ。引退後は選手のマネジメント業務を経験したのち、2023年に古巣サントリーのコーチとして復帰し、2024年からHCを務めている。

 小野は以前、「自分は51%キウィ(ニュージーランド人)、49%日本人」と話していた。

「今は外国籍の選手やスタッフも増えている。(日本人でも外国人でも)ダイレクトに話せるのが自分の強み。一番苦しい時、大変な時にセイムページ(共有すべきビジョン)を見せられるように戦っていきたい」

 今はリーグワン優勝を目指して奮闘する日々を送っている。

 まだ38歳。リーグワンで最年少の指揮官だ。

サントリーサンゴリアスで結果を残せば、次は指導者としてワールドカップの舞台に戻る可能性も大いにあるだろう。

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