ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第6回:倉田秋(ガンバ大阪)/後編
前編◆倉田秋が現役にこだわるワケ 「暗黒時代の3年間」を脱するために決断したこと>>
ガンバ大阪史上初めてのJ2リーグを戦うことになった2013年。倉田は再びガンバのユニフォームを纏ってピッチに立った。
「その時には『自分のプレーで勝負すればどこに行っても通用する』という自信もあったし、24歳という旬な年齢というか、波に乗っている状況でステージを落としてプレーするのはどうなのか、みたいなことも考えました。でも、最後は直感で残ろう、と。
『ガンバを背負っていこう』というほどの覚悟はまだなかったけど、僕なりに"ガンバでの自分"を初めて意識して決断したところはありました」
結果的にその直感は、倉田をさらなる高みへと引き上げていく。事実、新監督に就任した長谷川健太監督(現名古屋グランパス監督)のもとで戦った2013年は、序盤こそJ2リーグの"洗礼"を受けてやや勝ちあぐねたものの、徐々に盤石の強さを示してJ2を席巻。倉田も前半戦だけで7得点を奪うなど、存在感を際立たせる。この年、キャプテンに就任した遠藤保仁から「(倉田)秋は将来、ガンバを背負って立つ選手だから」と指名されて預かった副キャプテンも、新たな責任感に変わった。
「(長谷川)健太さんには、守備の強度とDFラインの背後、ペナルティエリアの角を必ず取りにいく意識を植えつけてもらいました。加えて、本当の意味で自分の活躍をチームの勝利につなげて考えるようになったのもこの年。ヤットさん(遠藤)が代表でチームを離れている時はキャプテンマークを巻くこともあったので、そういう立場を少し意識するようになったのかも」
とはいえ、そんな上り調子の最中にあった6月末の徳島ヴォルティス戦では左膝外側側副靱帯損傷と左脛骨近位骨挫傷の大ケガを負い、キャリアで初めて約2カ月半の長期離脱を余儀なくされたアクシデントも。
「個人的には初めての長期離脱で......ケガ自体は治すしかないと思って淡々と受け入れてリハビリをしていましたけど、苦労したのは復帰してから。ボールタッチやドリブルの感覚みたいなところでずっと『何かが違う』という思いが拭えず、本来のプレーを取り戻すのに1年くらいかかってしまった」
それでも、シーズン終盤には戦列に戻って攻撃を加速させ、どこよりも早くJ1昇格を確定させる。
ところが、2年ぶりに復帰した2014年のJ1リーグでは序盤、チームはもとより、倉田自身も苦しい戦いを強いられた。ケガから復帰して以降、自身に感じていたプレーの違和感は年が明けても拭えず、「何かが違う」と思いながらピッチに立つ時間が続く。一方、チームも勝ちあぐね、ワールドカップ開催による中断期間に突入した第14節終了時点の順位は降格圏の16位。出遅れは否めなかった。
そうした状況を一変させたのは、中断期間後、約2カ月ぶりにJ1リーグが再開してからだ。第15節のヴァンフォーレ甲府戦を機に5連勝で勢いに乗ったガンバは、その後も7連勝を挙げるなど破竹の勢いを示して上位争いに名乗りを上げる。倉田も主軸のひとりとして、右肩上がりの戦いを続けるチームを加速させ、Jリーグ史上初めてとなるJ1復帰イヤーでの三冠(リーグ、カップ、天皇杯)達成に貢献した。だが、シーズンを終えて倉田の胸に渦巻いたのは「悔しさ」だったという。
「タイトルの喜びとか、本来ガンバがいるべき場所に戻れた安堵感はありました。けど一方で、個人的にはシーズン終盤は途中出場が続いたので。そういう意味では、思うようなプレーができなかった前半戦を含め、自分に対する悔しい気持ちを持ち続けたシーズンだったな、と。
ただ、それを晴らすにはピッチで活躍するしかないと自分に矢印を向けて戦い、あらためて"先発"に執着を持てたことは、のちのキャリアにつながるものになった。......いや、今はそう思えるけど、当時はただただ悔しかったかな(苦笑)。でもその感情がまた自分の気持ちを燃やすものになったのは間違いないと思う」
昔も今も変わらず、"悔しさ"を反骨心に這い上がってきた倉田らしい言葉。その決意は、2015年の開幕戦からプレーで表現され、前線で躍動した彼は同年7月、東アジアカップ2015を戦う日本代表に初選出される。その経験を含め、2017年に再び選出されたなかで得た刺激は、自分の"今"を知り、さらなる成長を求める時間になった。
「決して長い期間、選ばれていたわけではなかったけど、練習を含め代表のレベルを肌身で感じることで考えさせられることも多かったです。中・高校生時代も、世代別代表に行くたびに、なんとなくひと回り成長できたような気になったけど、それとは比べものにならんくらい、自分がグッと引き上げられる感覚もあった。特に2017年は海外組も多かったので刺激だらけでした。
今だから明かせますけど、2015年に代表で受けた刺激が忘れられず、どうしてもまた代表に呼ばれたくて、足の指が折れたり、足首の靭帯を痛めたりといったアクシデントもありながら、痛み止めを打ちまくってピッチに立ち続け、必死にアピールして引き寄せた"代表"でしたが、それだけの価値がある場所でした」
なかでも、10代の頃から世代別の日本代表で一緒にプレーすることも多かった同世代、香川真司(現セレッソ大阪)のプレーは衝撃であり、大きな刺激だったという。
「当時の真司は、ドルトムントにいた頃でしたけど、代表チームでも群を抜いていました。中学生の頃から間近で見ていた選手だっただけに、よりその成長の度合いというか、彼が"海外"で培ったものの大きさを知ったし、自分との明らかな差も感じました。でも、その現実を知られてよかったと思っています。
加えて、2017年からガンバで背番号「10」を背負うようになったことも、倉田にとってはキャリアの節目ともいうべき出来事だ。どことなく自分に感じていた"物足りなさ"を振り払うためにあえて自分にプレッシャーをかけた。
「ガンバの『10番』といえば、フタさん(二川孝広)が14シーズンにわたって背負って、代名詞にしてきた番号。チームのタイトルに貢献してきた姿も見てきただけに、それを受け継ぐ"重み"は百も承知やったけど、『10番』を背負ってタイトルに貢献する自分を求めないと、今以上の姿は求められない気がしたというか。過去を振り返っても"追い込まれてこそ成長できるタイプ"だと自覚していただけにもう一度、そうした状況を自分に作り出したかった」
そんな覚悟のもとでの、ガンバの「10番」としての戦いも今年で9年目に突入した。プロキャリアとしては、19年目。昨年の7月20日の湘南ベルマーレ戦で達成したJリーグ史上32人目のJ1通算400試合出場という偉業も「単なる通過点」だと受け止め、今もガンバの最前線で戦い続けている。
今季ここまでのJ1リーグには23試合に出場し4得点(第28節時点)。一般的に30代も後半に差しかかれば、さまざまなブレーキを感じる選手も多いと聞くが、倉田に関してはむしろ、年々逞しさを増している印象だ。ここ数年、試行錯誤を繰り返しながら続けてきた筋トレや、数多の"体"に対する働きかけによって磨き抜かれた肉体も「今が一番いい状態」だと本人。しかも「まだまだ伸びしろはある」と笑う。いったい、何が彼を走らせているのか。
「『10番を背負ってタイトルに貢献する自分』はまだ見出せていないし、まだまだ足りていないと思っていますけど、やっぱり、日本代表に身を置いたことによるメンタルの変化は大きかったかも。あれを機に『考え方次第で変えられることはたくさんある』と心から思えるようになったから。
というのも、代表活動ってたった1~2週間ですからね。さっき『自分をグッと引き上げられるような感覚になった』とは言いましたけど、そんなすぐにサッカーがうまくなるはずがない(笑)。でも、あの場で刺激を受け、自分に『もっと、もっと』と要求できるようになったから成長も見出せてきたし、キャリアも続いてきたのかな、と。実際、今だってこの歳で技術面での成長を見出せるとは思っていないですけど、その揺らがないメンタルがあることが、結果的に自分を走らせ、戦わせてくれている。
あとは、2022年で味わった危機感かな。キャリアの後半に差しかかって味わった悔しさがもう一段階、ギアを上げるきっかけになった」
2022年といえば、彼が初めて"キャプテン"に就任したシーズンだ。新たな指揮官に就任した片野坂知宏監督のもと、開幕戦から先発のピッチに立った倉田だったが、4月にハムストリングの肉離れで離脱。約2カ月後に戦列に戻ったものの、その後も軽度の肉離れを繰り返してしまう。チームも思うように白星をつかめず、後半戦は特に監督交代、残留争いの苦境に立たされるなかで最終節に残留を確定させたが、倉田はその終盤戦、ほとんど先発のピッチに立つことができず、ラスト4試合に至っては、メンバー入りも叶わずにシーズンを終えた。
「僕にとってサッカー選手としての一番の楽しみは、公式戦でバッチバチの本気の勝負をすること。
練習が始まれば当然、ガムシャラにやるものの、クラブハウスを出た途端、いろんな感情に襲われて、落ち込んだこともあります。自分をどうにかして納得させたくて、小説から啓発本まで、読書をするようになったのもこの時です。無理矢理にでも自分を納得させられる考え方がほしくて、言葉を探していました。
でも結局、あれこれ考えても最後は『自分を出しきって戦い続けるしかない』『プレーで証明するしかない』ってことに行きつくんですよね。それに、チームが苦境に立たされている状況を考えれば、キャプテンの僕が暗い顔をしているなんて、ありえへんから。だからこそ日々の練習から『俺ら、こんなもんじゃないぞ』『まだまだいけるぞ』って姿を先頭に立って見せ続けることだけに気持ちを注いでいたし、それが自分のためになるとも思っていました」
当時、試合に出ていたメンバーがリーグ終盤、口々に「(倉田)秋くんのキャプテンシーに触れて、奮い立たない選手はいない」(宇佐美貴史)と話していたのを思い出す。その戦いの日々は、"残留"をあと押しする力になり、倉田自身を再燃させるきっかけにもなった。
「2022年は肉離れを繰り返してしまったこともあって、試合に絡めない時期にもう一度、体としっかり向き合えたのも大きかったです。単にガシガシと体を鍛える筋トレではなく、正しく鍛えることを覚えたというか。いろんな本や資料を読み漁って体の構造から学び直し、どこの筋肉を動かせばどう効いてくるのかを正確に理解したうえで、筋トレにも向き合えるようになった。
でも結果的に、それが今のコンディションや体の安定につながっていると考えても、やっぱり置かれている状況にしっかり向き合って、懸命に足掻いて、取り組むことに無駄はないな、と。それに、あのシーズン、繰り返し、頭をよぎった『キャリアが終わるんじゃないか』っていう"怖さ"は、今も自分のなかにあって、それが自分を突き動かす原動力にもなっている。
ただ、だからといって、不安になることはないです。だって、やるしかないから。この世界は、日々の積み重ねの先にしか"結果"はないからこそ、とにかく後悔しないように毎日を100%でやりきる。やれることを全部、やる。気持ちはいつもそこに向いています」
一点の曇りもない表情で言いきるあたり、倉田が今も持ち続けているという"怖さ"は、彼にとって一種の"お守り"のようなものなのかもしれない。今日より明日、明日より明後日、少しの慢心もなく戦い抜き、新たな自分を見出すための、だ。
「誰だって、キャリアの終わりはくるから。そこに思考を持っていかれても何も状況は変わらんから。それなら、必死に体を動かして、毎日を悔いなく精一杯過ごすことに気持ちを向けたほうがよほどいい。それに、面白いもので、体って磨けば磨くほど、きちんと応えてくれるから。もしかして、自分には永遠に終わりがこないんじゃないか、とすら思っています(笑)。
ただし、プロは自分が『まだまだやれる』と思っていても、それを他者に評価されないと生き残れない世界やから。僕を求めてくれるクラブや監督がいなければ、戦う場所がなくなるのは百も承知なので。やり続けることと並行して常に"求められる選手"で居続けなアカン。裏を返せばここから先は、"求められる選手"でなくなった時が、キャリアが終わる時なんやろうな、と思っています。じゃないと、自分では絶対にやめられへんし、そもそも『やりきった』と思える瞬間なんて、永遠にこないと思うから(笑)」
今のところ、その日が近づいている気配はない。磨き抜かれた肉体で攻守に走り回り、泥臭く、しぶとくゴールに迫り続けている姿が、それを教えてくれている。
(おわり)
倉田秋(くらた・しゅう)
1988年11月26日生まれ。大阪府出身。2007年、ガンバ大阪ユースからトップチームに昇格。2010年にJ2のジェフユナイテッド千葉に期限付き移籍し、翌年はセレッソ大阪に期限付き移籍。もともと実力の高さには定評があったが、それぞれのクラブで経験を重ねて自信をつける。2012年に古巣のガンバに復帰。以降、ガンバひと筋で、チームの主力として奮闘を重ねている。