Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第9回】ファネンブルグ
ジュビロ磐田

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第9回はジュビロ磐田の黎明期を支えたジェラルド・ファネンブルグを紹介する。オランダ代表としてユーロ88優勝を経験したテクニシャンは、高い技術力を示すことで日本人選手の成長を促したのである。

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 Jリーグの外国人選手において、オランダは少数勢力と言っていい。

 1990年代ならジェフユナイテッド市原で活躍したMFピーター・ボス、ガンバ大阪で1995年に20ゴールをあげたFWハンス・ヒルハウス、21世紀なら複数クラブでプレーしたDFカルフィン・ヨン・ア・ピンとDFヨルディ・バイスが、Jリーグに足跡を残した存在と言えるだろうか。

 もうひとり、忘れてはいけない選手がいる。

 ジェラルド・ファネンブルグだ。オランダ代表として1988年のユーロ優勝に貢献し、PSVアイントホーフェンの一員として同年のトヨタカップに出場したMFである。1990年のイタリアワールドカップでも、オランダ代表のユニフォームを着てピッチに立った。

 1993年夏の来日当時は29歳である。ジーコやガリー・リネカー、ピエール・リトバルスキーらがプレーするJリーグは、海外の一部メディアから「ピークの過ぎたワールドカッププレーヤーが集まっている」と言われたものだが、ファネンブルグはキャリアの円熟期でのJリーグ入りである。オランダ代表で10番を着けたこともある男への期待は高まった。

【ブラジル人のようなテクニック】

 それまで所属していたPSVとは、60歳までの終身契約(!)を結んでいた。破格の厚遇を破棄し、ファネンブルグはJFLからJリーグへの昇格を目指す磐田にやってきたのだ。

「日本に来たことで契約はなくなったけれど、それについて後悔するようなことはない。PSVでも、その前に所属したアヤックスでも、たくさんのタイトルをつかむことができた。

 Jリーグができてヨーロッパからも多くの選手が日本へ行っていると聞いていたし、監督のオフトともいろいろな話をした。それで、それまでとは違うサッカーに挑戦しようと思ったんだ」

 オランダでは「ジェラルジーニョ」と呼ばれていた。ブラジル人のようなテクニックを持つことが、その理由だった。

「1対1で相手を抜くのは、僕の特徴のひとつだと思っている」

 身長は172cmで、スピードが長所でもない。ただ、日本で「ジェラ」と呼ばれたこのオランダ人のすごみは、体重移動とステップワークにあった。

 少しさらし気味にボールを置いて、相手が足を出した瞬間に逆を取る。右足のひざ下を細かく動かし、左右どちらにも持ち出せるような動きが、相対する相手を翻弄した。「スルリ」と音がするように抜き去った。

 抜き去るだけではない。

相手を抜ききらずにクロスを入れる技術も長けていた。ライナー性、グラウンダー、放物線と軌道を使い分けることで、DFが足を延ばしても届かないのである。

 国内デビュー戦は1993年9月のナビスコカップ。「まだコンディションは整っていなかったけれど」と話しつつも、いきなりゴールを決めた。翌週のナビスコカップでもネットを揺らした。

 磐田がJリーグに昇格した1994年は、43試合に出場して8ゴールを決めた。シュートレンジが広く、利き足の右足はもちろん、左足でもゴールを決めた。ミドルレンジからの豪快なシュートがあれば、ゴールへパスをするようなコントロールショットもあった。

 J初ゴールは右足のスーパーミドルである。紛れもなくワールドクラスの一撃だった。

【古傷の左ひざの痛みが再発】

 1995年からは、ポジションを最終ラインへ下げた。即戦力の大型ルーキーとして名波浩が加入し、夏にはブラジル代表キャプテンのドゥンガがやってきた。高卒ルーキーの福西崇史がFWからボランチへコンバートされた。

さまざまなチーム事情が加味されて、ファネンブルグはリベロで起用されていくことになる。

 そもそも視野が広くて、長短のキックを駆使することができるのだ。中盤より時間の余裕があり、全方位からプレッシャーを受けないリベロなら、持ち前のゲームコントロール能力を存分に発揮できる。このコンバートはファネンブルグとチーム、双方の可能性を拡げるものだった。

 ところが、1995年は21試合の出場にとどまった。リーグ戦の半分以上を欠場した。古傷の左ひざの痛みが、彼をピッチから遠ざけたのだった。

 1996年はリーグ戦30試合のうち22試合に出場し、5ゴールを記録した。しかし、シーズン終盤はケガが続いた。Jリーグ通算86試合14得点の成績を残して、ファネンブルグは1996年シーズン限りで日本を去った。

 翌1997年シーズンに、ジュビロはセカンドステージ制覇とチャンピオンシップ優勝を果たす。1998年はファーストステージを制し、年間最多勝ち点を記録したが、チャンピオンシップで鹿島アントラーズに敗れた。

1998年はナビスコカップを制している。

 ここから磐田は、2000年代前半にかけて黄金時代を築いていく。中山雅史、藤田、名波、福西、服部年宏、高原直泰、田中誠らは、日本代表として国際舞台へ活躍の場を拡げていく。

 磐田加入前のファネンブルグは、アヤックスとPSVで数多くのタイトルを獲得してきた。オランダ代表でもヨーロッパの頂点に立った。

「だからジュビロでも、もちろんタイトル獲得を目指すよ。そのためにここに来たんだからね」

【ピッチ外ではおしゃべり好き】

 来日直後に明かした野心は、残念ながら現実とはならなかった。

 それでも、1990年代後半からの磐田の全盛期は、ファネンブルグが在籍した3年半を土台にしていると言って差し支えない。日本代表選手を多く輩出したことにも、影響を及ぼしただろう。「彼の高い技術を間近で見たことは、自分にとって大きかった」と藤田は言う。

 ファネンブルグがキャリアの円熟期を過ごしたことで、Jリーグに海外から注がれる視線は変わっていく。ベテランの外国人選手は確かに多いけれど、国際舞台で今も戦える選手がいるのだ、と。

 ピッチ外ではおしゃべり好きで、カードゲームに興じていたこのオランダ人も、Jリーグに好影響をもたらしたひとりなのである。

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