学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざまな部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。
この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!
連載「部活やろうぜ!」
【ラグビー】五郎丸歩インタビュー前編(全3回)
日本代表57キャップを誇り、得意のプレースキックで積み上げたテストマッチ通算711得点は今でも日本代表記録。ヤマハ発動機ジュビロ(現・静岡ブルーレヴズ)を日本選手権優勝に導き、2016年には海を渡ってフランス・トゥーロンでもプレーした。五郎丸はまさに日本ラグビー界の一時代を築いた名FBである。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
彼のラグビー人生を振り返るにあたり、原点のひとつは佐賀工業時代になるだろう。「花園」を夢見た少年は、福岡を離れて佐賀で鍛錬を積み、そして念願叶って憧れの地に足を踏み入れた。しかし、そこでの思い出は、苦いものだったという。
※ ※ ※ ※ ※
── 五郎丸さんは福岡県福岡市の出身ですが、高校は地元の東福岡などではなく、佐賀工業に進学しました。1歳年上の兄・五郎丸亮さん(FL/No.8)が在籍していた影響ですか。
「そもそも中学時代の僕は、強豪のヒガシ(東福岡)に誘われることもなかったです。ただ、兄がすでに佐賀工業にいましたので、小城博監督(おぎ・ひろし/現・佐賀工総監督)に誘われたこともあって、そのまま進学することにしたんです」
── 佐賀では親元を離れて寮生活?
「当時暮らしていた場所は、寮というより、一軒家を借りてみんなで住んでいるような感じでした。ただ、全員がその家に入りきれなくなって、私と兄はふたりで別の家に住む形となりました。
とにかく高校時代は、毎日の練習がキツすぎて......。家に戻って、寝て、学校に行って、部活をして、という繰り返しでした。朝練習はなかったですが、放課後は16時から20時くらいまでみっちり練習。家に帰ったら洗濯も自分たちでしていましたし。
朝・昼・晩の食事も大変でした。朝食は自分で作らないといけなかったですし、昼はお弁当を購買で買ったりして、夜は家の近くの飲食店で食べていました。普通の高校生の生活は送っていなかったです。高校生らしい楽しい思い出は、ひとつもなかったですね(苦笑)」
【花園の舞台で頭が真っ白に...】
── 五郎丸さんといえば、キックの印象が強いです。高校時代からプレースキックの練習は繰り返していたのですか?
「プレースキックは、実は大学時代から本格的に蹴り始めました。高校時代は体も作らないといけなかったですし、なにより練習がキツすぎて、キック練習をする余力はあまり残っていなかった。
── 五郎丸さんは高校2年時と3年時に花園のピッチに立っています(1年時はメンバー入りしたものの出場なし)。やはり一番の思い出は花園での試合ですか?
「花園は負けた思い出しか残っていないです。苦い思い出しかない。高校2年の時に兄と一緒に出場できたことは大きかったですが、ベスト8をかけた準々決勝で東福岡に12-58で負け、高校3年時も同じ準々決勝で大分舞鶴に0-20で完封負け。どちらの試合も第1グラウンド(花園ラグビー場)で負けました」
── 花園はやはり憧れの舞台でしたか?
「うちはラグビー一家で、僕も3歳から競技をやっていたので、花園の試合はずっとテレビで見ていました。自分が出る・出ないとかじゃなくて、花園ラグビー場という場所は、秩父宮ラグビー場より、国立競技場より上で、自分のなかでは『聖地』でした。
なので、高校時代はプレッシャーがすごく大きかった。毎年1年間、ずっと花園を目指してやってきたので......。第1グラウンド(花園ラグビー場)に立った瞬間は、頭が真っ白になりました」
── 初めて花園ラグビー場のピッチを踏んだのは、高校2年の準々決勝?
「はい。準々決勝までは第2グラウンドか第3グラウンドで、第1グラウンド(花園ラグビー場)ではなかったです。第1グラウンドへの憧れが強すぎたので、少しパニック状態みたいになって、今でも何も思い出せないくらいです。何もできなかったですね」
【1カ月半、僕だけキツい練習】
── 佐賀工はその年の花園のAシード校だったので、優勝候補でした。
「春の選抜大会は準優勝して、国体も単独チームで出場して優勝していたので、花園ではAシードでした。当然、花園では注目されていましたし、自分たちも優勝する気でいました。
それなのに......負けた悔しさが本当に大きかった。自分のミスもあったので、申し訳ないというか、今でも悔やんでいます。
ただ、花園での失敗があるからこそ、早稲田大時代に伸びたし、その後の自分があると思っています。だからこそ、ラグビー界に少しずつ恩返しをしなくちゃいけないなと」
── 高校時代、一番記憶に残っていることは?
「高校2年の花園で負けて帰ったあと、小城先生から負けた理由のようなことは特に言われなかったのですが、僕だけ1カ月半くらい、すごく練習がキツかったことです。全体練習後に走るように指示されたり、キック処理を何度もやらされました」
── なぜ、そういった練習を五郎丸さんに課したのでしょう?
「花園での負けは(自分のミスが多くて)謝って済む問題じゃなかったから、佐賀に帰ってきたあと、自分としてもこれからどうしていいかわからなかった。だから1カ月半、僕だけキツい練習を課してくれたのは、逆にすごくありがたかったです。
もちろん、練習自体はすごくキツかったですが、周りのみんなに再び認めてもらうには、そういったハードな練習を乗り越えなくてはいけなかった。周囲の雰囲気を感じて、小城先生が配慮してくれたのだと思います」
(つづく/文中敬称略)
◆五郎丸歩・中編>>高校時代にラグビー部で得たものは「技術うんぬんよりも...」
【profile】
五郎丸歩(ごろうまる・あゆむ)
1986年3月1日生まれ、福岡県福岡市出身。3歳からラグビーを始め、佐賀工業高校時代には3年連続で花園に出場。早稲田大学では1年時よりレギュラーとして活躍し、大学選手権優勝も経験する。