学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざまな部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。

 この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!

連載「部活やろうぜ!」
【ラグビー】五郎丸歩インタビュー中編(全3回)

◆五郎丸歩・前編>>「高校生らしい楽しい思い出はひとつもなかった」

【部活やろうぜ!】五郎丸歩が高校時代にラグビー部で得たもの「...の画像はこちら >>
 九州の高校ラグビー強豪校・佐賀工業の部活動はどんなものだったのか。

「毎日の練習がキツすぎて、高校生らしい楽しい思い出はひとつもなかった」

 ラグビー日本代表の顔として活躍してきた五郎丸歩は、佐賀工で鍛えられた日々をそう振り返る。ただ、笑いながら語れるほどだから、その内容は充実していたのだろう。

 高校時代は「濃い3年間だった」とも言う。花園での経験、過酷な夏合宿、監督からの教え......すべてが己の糧(かて)となり、今の五郎丸歩を形成しているのは間違いない。

   ※   ※   ※   ※   ※

── 佐賀工は昨シーズンまで花園に43回連続、計53回出場している全国屈指の強豪校です。佐賀工ならでは、という伝統の練習はありましたか?

「現在は人工芝ですが、僕が通っていた頃はまだ土のグラウンドでした。土だと接点の練習は思いっきりできないですし、特に夏はとんでもなくグラウンドが暑くなるので、校内の柔道場に行って練習していたんです。

 柔道場ではタックル時の受け身の取り方とか、ラック時にボールを遠くにリリースする動きとか、小学生が最初にやるような基礎中の基礎を本気でやっていました。佐賀工には中学時代からラグビーをやってきた選手もいましたが、大半は他競技を経て高校から始めた選手でしたので。そういう基礎的なことを徹底的にやっていた、というのが佐賀工の伝統ですね」

── 戦略・戦術的なことは、あまり教わらなかったのでしょうか?

「そうですね。

あらためてイチから基礎を教えていただいたことで、変なクセがつかなくてよかったと思っています。高校時代にほとんど基礎しか教えられなかったからこそ、早稲田大で清宮(克幸)監督にラグビーの応用を教えていただいた時、楽しくてしょうがなかったです」

── 佐賀工も夏は「ラグビー合宿の中心地」長野・菅平高原に?

「菅平は毎年夏に、行っていましたね。ただ、九州中の強豪校が集まる大分・湯布院でも合宿していました。スケジュールは午前中に練習して、午後から試合。湯布院の合宿が終わったあとに、1週間から10日くらい菅平に合宿に行くという流れでしたね」

【初めて日本一になった高校時代】

── 夏合宿の思い出は?

「由布院では、朝6時から早朝の走り込みがありました。でも、高校1年生は4時起きだったんです。1年生は早めにグラウンドに行って、チームや監督のスペースを確保しておかなくちゃいけなかったので。そして夜は夜で、大量の洗濯が待っています。そんな思い出もありましたね」

── 朝の走り込みはどのくらいの距離を?

「たしかクロスカントリーで2~3kmくらいだったと思います。その後にランパス(全員でパスをしながら走ること)を10往復して、それが終わってから、やっと通常の練習でした。朝練習もけっこう長かったですね」

── 菅平では全国の強豪校との練習試合が中心でしたか?

「そうですね。菅平は試合ばっかりでした。1年生の時はBチームで試合をやりつつ、Aチームのリザーブにも入っていたので、ずっとグラウンドにいましたね(笑)。

最低でも毎日2試合はやっていました。今から考えても、高校時代しかできないことですよね!」

── 佐賀工時代は濃い思い出ばかりですね。

「初めて日本一になったのも高校時代でした。国体で埼玉に17-10で勝利して優勝しました。花園ではなく国体だったので、当初あまり達成感はなかったのですが、次第に『日本一になるとはこういうことか』という感覚を知ることができました」

── 五郎丸さんが高校時代に一番得たものは何ですか?

「技術うんぬんよりも『人として』という部分を小城監督に教えられました。練習が終わったあとにみんなで集まって監督の話を聞く時間があるのですが、そこではラグビーの話というより、先人の話や歴史的な話が多くて、非常に勉強になることが多かった。

 50年以上前に佐賀工でラグビー部を作ったのも小城監督です。『数々の先輩たちがいたからこそ、今の僕らがある』という話もよくおっしゃっていました。あと、日本人として持っておかなくちゃいけないマインドなど、ラグビー以外の考え方もすごく教えられたと思います」

【佐賀工の伝統は「泥臭さ」】

── 小城監督の存在は大きかったですね。

「日頃から小城監督が言っていたのは、『ピークは高校じゃない』ということ。佐賀工出身の選手たちは、大学や社会人でしっかりと開花できるような指導を受けてきていると。だからこそ、『高校時代に勝てなかったとしても、それは問題ではない』と常々おっしゃっていました」

── 親元を離れて佐賀に来て、小城監督は父親代わりのように見えます。

「本当に、親父みたいなものですよ。休みの日も『風呂に行くぞ』『飯に行くぞ』と気にかけてくれていました。高校時代は親父よりも長い時間、一緒にいましたね。本当に濃い3年間を過ごさせていただきました。

 高校を卒業したあとも、大学選手権の決勝やヤマハ発動機に入団する時など、人生の節目で声を毎回かけてくださいました。先生というより、親父みたいな存在です。ずっと私を支えてくださっています」

── 佐賀工の先輩として、後輩の試合は気になりますか?

「佐賀工の試合は今でも見ていますよ。小城監督から『試合があるから見てね』と電話もかかってきますし。我々の時代では考えられなかったですが、女子部員もたくさん入部していますし、大学でも佐賀工出身の若い選手たちが育ってきています。ただ、佐賀工の伝統である『泥臭さ』みたいなものはずっと持っていてほしいな、という思いもあります」

── 佐賀工の後輩にエールをお願いします。

「佐賀工は県立高校ですけどグラウンドが人工芝になるなど、環境面もすごく整ってきています。子どもたちの人口が少なくなり、都心に人が集まっていく傾向のなかで、私立校でもないのに地方都市で強豪校を作り上げるのは難しいことだと思います。

 それでも、佐賀工は人を大事に、その先の成長まで面倒を見る高校です。佐賀工らしさを忘れずに、花園優勝にチャレンジし続けてほしいですね」

(つづく/文中敬称略)

◆五郎丸歩・後編>>「アゴを骨折して鼻から流動食を入れてトヨタに勝った」


【profile】
五郎丸歩(ごろうまる・あゆむ)
1986年3月1日生まれ、福岡県福岡市出身。3歳からラグビーを始め、佐賀工業高校時代には3年連続で花園に出場。早稲田大学では1年時よりレギュラーとして活躍し、大学選手権優勝も経験する。2008年、ヤマハ発動機ジュビロに入団。2016年はフランスのトゥーロンやオーストラリアのレッズでもプレーし、2021年シーズンで現役を引退。日本代表通算キャップ57。日本代表テストマッチ最多得点記録保持者。ポジション=FB。185cm、100kg。

編集部おすすめ