語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第27回】畠山健介
(仙台育英高→早稲田大→サントリー→ニューカッスル・ファルコンズ→ニューイングランド・フリージャックス→豊田自動織機)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。

だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載27回目は、日本代表として歴代5位、PRでは最多78キャップを誇る畠山健介を紹介する。2015年ラグビーワールドカップ・南アフリカ戦で右PR「3番」として先発し、あの歴史的勝利「ブライトンの奇跡」を経験したラガーマンのひとりだ。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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ラグビー日本代表で「プロップ」といえばこの男 畠山健介の献身...の画像はこちら >>
 2012年、エディー・ジョーンズHCが日本代表の指揮官に就任すると、サントリー時代から右PR「3番」として育ててきた名将は、畠山健介に左PR「1番」へのコンバートをうながした。3番はスクラム時、両肩で相手チームの圧力に耐える必要があるため、右肩だけで組む1番よりもフィジカルが要求されるポジションだ。

 だが、2011年にプロ選手となった畠山は3番へのこだわりが強く、その思いを捨てることはできなかった。日本代表でも再び右PRとして起用してもらえるよう、スクラム強化に必要な背筋、首、体幹のトレーニングを地道に続けた。

 2015年9月19日──。ブライトン・ファルマースタジアムで行なわれた南アフリカ代表とのラグビーワールドカップ初戦。畠山は右PRとして「3番」を背負って先発出場を果たした。

 相手はワールドカップ優勝2回を誇る世界のトップ。強力なFWを擁する南アフリカ相手に、畠山はスクラムやラインアウトといったセットプレーで一歩も引けを取らなかった。

攻守に渡って土台を支えた畠山は、「ブライトンの奇跡」の陰の功労者といっても過言ではない。

 歴史的アップセットを起こしたスタジアムの歓喜のなか、畠山は満面の笑みを浮かべながら地元・気仙沼の子どもたちが寄せ書きしてくれた日の丸を広げた。

【早稲田大で「空飛ぶ横綱」の異名】

 畠山は宮城県気仙沼市出身。2011年の東日本大震災では、津波で実家が流された。「被災地を元気に」という強い思いを胸に、同年ニュージーランドで開かれたワールドカップに初めて臨んだが、結果は1分3敗。気仙沼に、東北に、白星を届けることはできなかった。

 そして迎えた2015年、自身2度目のワールドカップ。誰も予想できなかった大金星を挙げた畠山は、4年越しの思いを叶えることができた。惜しくも決勝トーナメントには勝ち点差で進出できなかったものの、南アフリカ、サモア、アメリカに勝利した結果は「被災地を元気に」させたことだろう。

 畠山が初めて楕円球に触れたのは、宮城・気仙沼の鹿折ラグビースクール。兄の影響で小学校2年の時に入団し、当時から体が大きかった畠山は相手を次々と吹き飛ばしていたという。

 中学時代は漫画『SLAM DUNK』の影響もあり、ラグビースクールと同時にバスケットボール部にも所属。ラグビーでの体のさばき方やパスのうまさは、この時のバスケットボールから学んだことも大きかった。

 高校はFWの強さに定評のあった地元の強豪・仙台育英へ。高校1年から3年連続で「花園」全国高校ラグビー大会に出場し、高校日本代表にも選ばれるなど注目された逸材だった。

 高校卒業後は母親がファンだったという早稲田大に進学。清宮克幸監督の下で大学2年時から先発に定着し、「空飛ぶ横綱」の異名で活躍。アカクロジャージーでも欠かせない「3番」として早稲田大の強力FWを支えた。

 大学時代の畠山を振り返る時、もっとも印象に残っている試合を挙げるとすれば、やはり大学2年時の日本選手権・準々決勝(2006年2月)だろう。

 シーズン当初から「打倒トップリーグ」を掲げていた早稲田大は、関東大学対抗戦で全勝優勝を果たしたのち、大学選手権の決勝でも圧倒的な強さで関東学院大に勝利。そして迎えた日本選手権の準々決勝で、トップリーグ4位のトヨタ自動車に真っ向勝負を挑むことになった。

【日本人PR初の欧州挑戦】

 その時のトヨタ自動車には、日本代表のSO廣瀬佳司やCTB難波英樹、WTB遠藤幸佑、元ニュージーランド代表のLOトロイ・フラベルやNo.8フィロ・ティアティアなど、錚々たる選手がいた。そんな強い個々を相手に、早稲田大は序盤から試合の主導権を奪い、最終的に28-24で勝利する。

「試合後の秩父宮ラグビー場には『ワセダ!』コールが鳴り響き、『すごいことを成し遂げた』という思いがすごく伝わってきました。自分たちが集中し、会場とひとつになった雰囲気のなか、熱量を持ってラグビーができました」(畠山)

 2008年、畠山は鳴り物入りでサントリーに入部。

ルーキーながら先発の座をつかみ取る活躍を見せ、「新人賞」と「ベスト15」のダブル受賞を果たす。日本代表を率いるジョン・カーワンHCの目にも止まり、同年11月にはアメリカ戦で初キャップを獲得した。

 そこから畠山は、サントリーと日本代表の両輪で存在感を示していく時代が続く。サントリーでは2010年から「アタッキングラグビー」を掲げるジョーンズHCが指揮官になり、PRながら機動力と戦術眼に長けた畠山はより輝きを増していった。

 2011年度と2012年度はトップリーグと日本選手権の「2冠」を2年連続で達成。サントリーの黄金時代を支えた選手となる。

「エディーさんがサントリーの指揮官になり、ハードワークをしないと勝てないことを植えつけ、サントリーを『勝つチーム』にしてくれた」(畠山)

 2015年ワールドカップを終えたのち、畠山はPRの日本人選手として初めてヨーロッパの舞台に挑戦する。2016年1月に期限付き移籍で、イングランドのニューカッスル・ファルコンズでプレーすることになった。

 2019年にはサントリーを退団し、今度はアメリカに渡ってニューイングランド・フリージャックスに入団。2021年に帰国したあとは豊田自動織機シャトルズ愛知でプレーし、2022年に36歳でブーツを脱いだ。

 引退後の畠山は、解説者としてラグビーの普及に貢献しながら、スクラムコーチとしての道も歩み始めた。今年3月から今度は指導者として海を渡り、早稲田大とも交流のある韓国・高麗大ラグビー部のスクラム強化にあたっている。

 プロップとは「支柱」を意味している。桜のジャージーで積み上げたキャップ数は78。畠山は文字どおり「日本代表の支柱」にふさわしいラガーマンだった。

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