田中健二朗インタビュー(前編)

 台風15号が東海地方を直撃した9月5日、くうふハヤテベンチャーズ静岡の本拠地である『ちゅ~るスタジアム清水』で、35歳のベテラン左腕である田中健二朗の現役引退会見が開かれた。

 激しく雨が舞い、時に稲光が差す空模様は、まるで慟哭しているかのようだったが、会見は静謐のなか、粛々と進んでいった。

田中と縁のある人たちのビデオレターなどもあり、最後は横浜DeNAベイスターズ時代の親しい先輩である石川雄洋氏と梶谷隆幸氏がサプライズ登場するなどハートウォームな雰囲気で会見は締めくくられた。

【プロ野球】引退決断の田中健二朗インタビュー「もうこれ以上、...の画像はこちら >>

【高校生ドラフト1位で入団】

 ベイスターズで16年、ハヤテで2年、計18年間のプロ野球人生を振り返り、「幸せでした」と、万感の思いを込め田中は語った。

 会見後、田中と言葉を交わすと「ちゃんとしゃべれてましたかね?」と、心配そうな顔で尋ねられた。もともと人前で話すのは得意なタイプではない。しかし、関係者や応援してくれた多くの人たちに気を配った言葉の数々に田中の誠実さが滲み出ており、「いい会見でしたよ」と伝えた。

「よかったです。いや、当たり前ですけど、こういう機会ってないんで、めちゃくちゃ緊張したんですよ。じつは、過去の野球選手の引退会見の動画とかも見て参考にしたんですよ」

 そう言うと田中は笑みを浮かべ、続けた。

「あと最後に、石川さんや梶谷さんが出てきたのは驚きました。いや、うれしかったですよ。若い時に、本当にお世話になった方々ですからね。本当はあそこで、ええ~って感じで涙を流すのがきれいなんでしょうけど、もう緊張しまくっていたので、それどころじゃなかったですよ」

 マウンドでは、緊張をしない孤高の男が手に汗を握った引退会見。温かい気持ちと寂しさが交錯する時間だった。

 静岡県の常葉学園菊川高校(現・常葉大学附属菊川高校)時代の3年春の選抜で優勝投手となり注目されると、2007年の高校生ドラフト1位でベイスターズに入団。

 若い時は結果を出せずに苦しんだが、プロ7年目にリリーバーへ転身するとチームの主力として一気に花を咲かせた。代名詞となるカーブを武器に2年連続60試合登板を達成しブルペンを支えるも、2019年にトミー・ジョン(TJ)手術を行なうなど決して順風満帆な野球人生ではなかった。

【ベイスターズを戦力外になりハヤテに入団】

 そして2023年オフに16年間過ごしたベイスターズをリリースされると、投手としての燻る心の炎を鎮めることはできず、学生時代を過ごした静岡に誕生した新球団であるハヤテに加入をした。

 あれから2シーズン、田中はマウンドを降りることを決断した。引退の理由について、田中は目線を外し、ぽつりぽつりと語り出した。
 
「TJ手術から復帰した時に、第二の人生じゃないけど40歳までやりたいなって淡い思いはあったんですけど、ハヤテに来たことで現実的な目標がNPB12球団復帰になりました。だから今年はその思いだけでプレーしてきたし、もしダメだったら引退しようと覚悟していたんです」

 この会見前までの田中のスタッツは、31試合に登板し、防御率2.08。決して悪い数字ではなかったが、7月31日の選手契約可能期限までにNPB12球団から田中に声はかかることはなかった。厳しい現実を受け入れるしかなかった。

「小さいケガはあるけど、まだ投げることはできます。『身体が元気なら続ければいいのに』といった言葉もいただくのですが、覚悟して挑んだシーズンでしたし、目標を達成できずに続けるのは自分のなかで何か違うなという思いもあったんです」

 そう言うと田中は沈黙し、しばらくして口を開いた。

「うん。

正直、もうこれ以上頑張れないな......というのが僕のなかにありましたね」

 無念さが漂う。身体は動くが、もう心がついていかない。それほど今年に賭ける思いは強かった。はたして獲得期限が過ぎた翌8月1日を、どんな気持ちで迎えたのだろうか。

「覚悟はしていましたが、本当に引退なんだなって思ったら、グッとこみ上げてくるものがあって。あの時は僕自身、今日の嵐みたいな感じでしたね」

 田中は照れくさそうに苦笑して言うと、こちらに目を合わせた。

「ただ、もう決めていたことなので、すぐに切り替えはできましたよ。今は本当にスッキリしたというか、やりきったな、終わったなっていう感じです」

 どこか台風一過のような清々しさを漂わせながら、田中は言った。

【ブラッシュアップに努めたハヤテでの2年】

 ハヤテでの2シーズン、田中は懸命に奮闘した。ウエスタン・リーグだけで戦う特殊なチーム事情のなかで、NPB12球団への復帰には独特の難しさがあったと思われるが、田中はどのような思いを抱き、何を感じながらマウンドに立っていたのだろうか。

「やっぱり難しさはありますよね。単に成績を残すだけでは、『獲得します』とはならない。

ましてや30歳半ばのピッチャーですし、一軍ですぐ投げられることを求められます。そうなると、もう二軍選手との勝負ではないんです。

 試合では一軍でやっている投手や打者とのしのぎ合いになるし、また二軍にも将来を嘱望される化け物みたいな選手がたくさんいて、そこと比べられる。年齢はどうなのか、体力はあるのか、単にピッチングの良し悪しだけじゃなく、編成面も含めいろんな要素を加味したうえで獲得に至るんだなっていうのは感じましたね」

 一度戦力外を受けている以上、過去の遺産で勝負はできないと考えた田中は、この2年間、自身のブラッシュアップに努めてきた。

「僕の場合は球速が出ないので、見栄えという部分を気にしていて、だったら三振を取らなければいけないだろうって。まず、左打者からなかなか空振りが取れないのが課題でした。インコースで勝負できる強みはあるのですが、それだけでは苦しいので、スライダーというか、大きく曲げるのではなくカットに近い球種を磨いて勝負したんですが、空振りを取るまでには至りませんでしたね」

 残念ながら努力は実を結ばなかったが、それでも自分自身に向き合い、汗と泥にまみれたハヤテでの2年間は充実したものだった。

「いや本当、最後はハヤテでもがくことができてよかったと思っているんですよ。やるだけやって、自分から引退をするという決断をすることができましたからね。2年前とは明らかに心境は違います。

 それにハヤテという球団は、誤解を恐れずに言えば、プロ野球に属しているけど、プロ野球ではないチーム。僕みたいにNPB復帰を目指す選手もいますけど、その多くが上を目指す若い選手ばかりなので、その渦中に身を置いたことは、今後野球に携わっていくうえで、大きな財産になりました」

 学生時代を過ごした静岡で2024年に誕生した新興球団での日々は、自身の野球観を一変させるものだったと経験豊富な田中は述懐する。

つづく>>


田中健二朗(たなか・けんじろう)/1989年9月18日生まれ。愛知県出身。2007年の常葉菊川高3年時に春のセンバツで優勝し、夏も全国ベスト4に進出した。同年、高校生ドラフト1位で横浜ベイスターズに指名され入団。15年に35試合に登板し、防御率2.20の好成績を挙げ、以降は貴重な中継ぎとして活躍。その後、ヒジの故障もあり19年にトミー・ジョン手術を受けて育成契約となるも、21年6月に再び支配下登録に。22年4月19日には1363日ぶり勝利を挙げた。しかし翌年、11試合の登板に終わると、オフに戦力外通告。24年からNPBのファームに新規参入したくふうハヤテベンチャーズ静岡でプレー。25年9月に現役引退を表明した。NPB通算274試合登板、14勝13敗1セーブ64ホールド、防御率3.64

編集部おすすめ