連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第5回 織田信成 前編(全2回)

 2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会~2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。第5回は、波乱万丈を経て2010年バンクーバー五輪出場を果たした織田信成の軌跡を振り返る。

前編は、シニアデビュー1年目の2006年トリノ五輪出場をかけての戦いについて。

五輪の最終選考で採点ミスの悲劇...織田信成は喜び一転、泣き...の画像はこちら >>

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【まさかの採点ミスで代表逃す】

 織田信成の名前が一気に知れ渡ったのは、2005年12月の全日本選手権だっただろう。たった1枠の2006年トリノ五輪代表の座を争った最終選考会の死闘だった。

 前季3月の世界選手権では、フィギュアスケート日本男子を長年けん引してきた本田武史が前日の公式練習で負傷し、演技途中で棄権。日本勢でひとり残った高橋大輔は、トリノ五輪出場2枠を獲得するためには、8位以内に入らなければならなかった。だが、重圧に押しつぶされ、総合15位。2枠獲得は果たせなかった。

 そして、その1枠を巡る戦いは熾烈だった。織田は、GPシリーズのスケートカナダは3位。次のNHK杯は逆転優勝し、高橋が3位という結果に。そして、GPファイナルでは3位の高橋に次ぐ4位。前季の選考ポイントやシーズンの結果で高橋が若干リードしたが、全日本選手権の結果が代表選考に大きく影響する状況だったのだ。

 その勝負。

ショートプログラム(SP)で先手を取ったのは、ノーミスで滑った織田だった。トリプルアクセルがパンクしてしまった高橋に5点以上の差をつけた。そして、フリーの織田は、冒頭のトリプルアクセルからの3連続ジャンプで転倒したものの、その後はノーミスで146.20点を獲得。合計は公認の自己ベスト(当時)を10点弱上回る226.10点に。キス・アンド・クライで、ボロボロと涙を流した。

 そして、高橋は最初の4回転トーループが3回転になり、後半のトリプルアクセルがシングルになるミスをしたが、その他はしっかりとまとめて148.60点を獲得。だが合計は223.12点で織田には届かず。その瞬間、織田が再び号泣する姿がモニターに映し出された。

 しかし、その後に織田の得点に採点ミスがあったと発表された。最初に転倒した3連続ジャンプの2回転ループが、3回転ループのアンダーローテーションだったと判定され、3種類目となる2回目の3回転ジャンプとなった3回転ルッツが0点に。合計は218.70点に修正されて高橋の優勝が決定した。

 その説明を聞いた織田は泣き崩れ、報道陣の前に現れることなく帰ったと報告された。

NHK杯初優勝時の大泣きに続き、その採点のゴタゴタとともに衒(てら)いもなく涙を流す織田のイメージが、世間の人たちに強く印象づけられたのだ。

 試合の翌日に織田は、「納得している部分が1割で9割は悔しいですが、ちょっとだけでも金メダルを掛けられたのはうれしいです」と話した。

【好調の最中、不祥事で離脱】

 それでも全日本で高橋と僅差だったことを評価され、四大陸選手権とともに世界選手権の代表に選出された。

 そして四大陸選手権で優勝して臨んだシニア初の大舞台の世界選手権は、予選B組1位発進のあとSPはノーミスで自己ベストの78.25点で3位につけると、フリーはジャンプのミスもあって順位を下げたが、総合4位。翌年の世界選手権出場2枠を獲得し、日本男子躍進への足掛かりを作った。

 初出場の世界選手権4位でつけた自信は、翌2006−2007シーズンで発揮された。GPシリーズのスケートアメリカでは、エヴァン・ライサチェク(アメリカ)を破って優勝すると、次のNHK杯ではSP、フリーともノーミスの演技で自己ベストの244.56点を出し、高橋に次ぐ2位に。GPファイナルもブライアン・ジュベール(フランス)と高橋に次ぐ3位になった。

 全日本選手権2位を経て臨んだ2回目の世界選手権は、SPで冒頭のトリプルアクセルが半回転になるミスがあり14位と出遅れたが、フリーで巻き返して総合7位に。2位の高橋とともに翌2008年の世界選手権の出場枠を、最大の3枠にした。

 だが、勢いが続かないのも織田らしいところだった。2007年夏にはミニバイクの酒気帯び運転で警察に摘発され、日本スケート連盟から大会への出場停止処分を受けた。同年12月の全日本選手権は出場を予定していたが、直前に欠場を発表。

2007−2008シーズンは全休することになってしまった。

【殻から抜け出す契機は4回転成功】

 それでも、ニコライ・モロゾフ氏をコーチに招へいした2008−2009シーズンは再び輝いた。2008年9月と10月の国際大会で連勝したあと、GPシリーズ復帰戦となったNHK杯では、フリーは4回転トーループを入れた構成に挑み、2位のジョニー・ウィアー(アメリカ)に12点弱の差をつけて優勝。

 エースの高橋がケガで全休のシーズンになったなかで、全日本選手権でも2位の小塚崇彦に15点弱の差をつけて優勝。連勝を続けた。

 そして2010年バンクーバー五輪の出場枠獲得がかかった重要な世界選手権では、SPでは「リラックスしていて演技ができるかなと思ったが、逆にスピードがつきすぎて失敗してしまった」と本人が話したように、3回転ルッツ+3回転トーループで着氷後にフェンスにぶつかって転倒するアクシデント。76.49点で7位発進と苦しい状況に追い込まれた。

 フリーも冒頭の4回転トーループ+3回転トーループを初めて決めたが、次のトリプルアクセルはオーバーターンになってとっさに3本目のサルコウに3回転トーループをつけてしまった。後半の単発のトリプルアクセルは2本目で連続ジャンプ扱いになったため、その後の3回転フリップ+2回転トーループ+2回転ループが4本目のコンビネーションジャンプになって0点になるミスをした。

 それでも総合7位を堅持して、6位の小塚とともにギリギリで五輪出場3枠を獲得と、高橋不在の穴を埋めた。

 3枠獲得に安堵しながらも織田は、「ジャンプの本数制限に引っかかるのは3回目なので、学習能力がないというか......。今後への反省点だと思います」と自省。

初の4回転ジャンプ成功についてはこう話した。

「今季は4回転にずっと集中してやってきたので、最後の世界選手権でできたのがうれしくて涙が出てしまいました。五輪の枠がかかった大会で挑戦しようかどうか迷ったけれどコーチから言われた言葉を信じて、自信を持って跳べたのは大きな成果だと思います。ただ技術は上がったが、上位の選手たちを見ると表現がすごかったので、自分ももっと表現できるようにしていきたいです」

 前季は大会に出場できなかったことをあらためて振り返り、「自分にはスケートが一番だなと実感した」と話した織田。順位こそ納得できなかったものの、殻から抜け出すひとつのきっかけになった。そして戦いはバンクーバー五輪へと続いていった。

後編につづく

<プロフィール>
織田信成 おだ・のぶなり/1987年、大阪府生まれ。2005年、世界ジュニア選手権で優勝すると、シニアデビュー後は全日本選手権やNHK杯、四大陸選手権など数々の大会で優勝。2010年バンクーバー五輪は7位入賞。2013年に現役引退するも、2022年に復帰を表明し、2024年全日本選手権で4位入賞を果たした。2025年に再び引退。現在はプロフィギュアスケーターとしてアイスショーなどで活躍する。

関西大学大学院文学研究科総合人文学専攻身体文化専修修士課程修了。4児の父。

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